Music: Twilight

第88代後嵯峨天皇・第90代亀山天皇
2001.April 14 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(天竜寺境内)






			【第88代 後嵯峨(ごさが)天皇】
			別名: 邦仁(くにひと)
			誕生崩御: 仁治3年(1242) 〜 文永9年(1272)(53歳)
			在位期間: 建久9年(1198)〜 寛元4年(1246)
			父:  土御門天皇 第3皇子
			母:  源通子(参議源通宗の娘)
			皇后: 西園寺貴子
			皇妃: 体子内親王、平棟子、藤原博子、藤原公子、一条殿局
			皇子女:円助親王、顕日、宗尊親王(鎌倉幕府6代将軍)、久仁親王(後深草天皇)、仁恵親王、綜子内親王、
			    恒仁親王(亀山天皇)、覚助親王、ト子内親王、最助親王、浄助親王、雅尊親王、慈助親王、
			    貞長親王、悦子内親王、懌子内親王、忠助親王、勝助、他 
			宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
			御陵: 嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ:京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町)



			【第90代 亀山(かめやま)天皇】
			別名: 恒仁(つねひと)
			誕生崩御: 建長元年(1249) 〜 嘉元3年(1305)(57歳)
			在位期間: 正元元年(1259) 〜 文永11年(1274)
			父:  後嵯峨天皇 第3皇子
			母:  西園寺在子
			皇后: 洞院佶子、西園寺嬉子
			皇妃: 藤原位子、懌子内親王、藤原瑛子、藤原雅子、藤原寿子、源親子、下野局、貫川、督局  
			皇子女:知仁親王、世仁親王(後宇多天皇)、性覚親王、良助親王、性恵親王、聖雲親王、覚雲親王、
			    憙子内親王、理子内親王、啓仁親王、順助親王、継仁親王、慈道親王、兼良親王、寛尊親王、
			    恒明親王、尊珍親王、守良親王、道性、叡雲親王、性融親王、行円親王、恒雲親王、
			    益性親王、道澄親王、尊誓
			宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
			御陵: 亀山陵(かめやまのみささぎ:京都府京都市左京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町)



		京都嵯峨野は折からの桜見物と観光客でごったがえしていた。渡月橋前広場の桜は、まるで桃色の天井のようだ。




		観光客は、阪急電車を降りると桂川の河原であるジャリ石の公園を歩いて渡月橋を目指す。そうではなくて、阪急を降りたら左へ折れ
		て渡月橋を目指していくと、大堰川という桂川の狭い支流を見ながら行くことになる。そしてその途中に、この「一ノ井堰碑」が立っ
		ている。碑文にあるように、五世紀頃大陸から渡ってきた秦氏がこのあたりに堰関を築いたらしい。その顕彰碑である。

 




<天龍寺 てんりゅうじ>  京都市右京区嵯峨天龍寺  
		後嵯峨天皇の亀山離宮があった頃、暦応2(1339)年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓国師を開山として創建した
		禅寺で、方丈裏の庭園(特別名勝)は往時の面影を今に伝えている。嵐山、亀山を借景とした池泉回遊式庭園で、貴族文化の伝統と禅
		好みの手法が溶け合い、四季折々の美しさを見せる。 阪急電車「嵐山駅」から渡月橋を渡ってすぐ。京福嵐山線「嵐山駅」下車、ある
		いは市バス「京福嵐山駅前」下車からは目の前。

 

  



天竜寺の庭・講堂へ入る正面に向かって右手に御陵ならびに天竜寺墓所へ行く門がある。ひっそりしていて目立たない。

 

★第88代 後嵯峨(ごさが)天皇  嵯峨南陵
		土御門天皇の皇子。在位1242〜1246、生没1220〜1272。53歳で没。

		後嵯峨天皇が誕生した翌年の1221年、承久の乱が起こり、敗れた後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ配流されたが、乱には関与しなか
		った土御門院も自ら望んで土佐に流された。土御門院はその後阿波に移り、1231年同地で崩御。
		承久の乱で父の御門院が土佐へ配流となった為、後嵯峨天皇は母の叔父中院通方に養育される。暦仁元年(1238)通方が没すると、父方
		の祖母承明門院に養育される。四条天皇が皇嗣の無いまま急死すると、跡継ぎを巡っての論議が起きる。
		いったんは順徳上皇の皇子・忠成王が帝に推挙されたが、父親の院政を恐れて見送られた。そこで北条泰時は、遠い血縁の邦仁(くに
		ひと)王に八幡宮の託宣が下ったとして即位させる。やがて後嵯峨天皇は、皇子・後深草天皇に譲位し、20年間院政をとる。この間、
		後深草天皇(兄)を退位させ、亀山天皇(弟)を即位させて、さらに亀山天皇の皇子を継承者とした。後嵯峨天皇が兄弟のうち兄より
		も弟をかわいがったため、この兄弟にはしこりが残り、やがてこの二人が持明院統(後深草)と大覚時統(亀山)の始まりとなって、
		南北朝の戦いへ発展する。後嵯峨天皇が後深草天皇を嫌った理由として、病弱で好色だったためとも伝えられる。
		後嵯峨天皇自身は、仏教信仰厚く、和歌にすぐれていたと言い、藤原基家らに「続古今和歌集」を撰集させている。
		『増鏡』によれば、後嵯峨天皇については以下のように記述されている。

		源大納言通方が預かっていた阿波院(土御門院)の皇子は、成長するに従い、性質は大変優れ、容姿も端麗で、上品高貴な雰囲気を漂
		わせていたので、世間の人々は優秀な皇子の現在の境遇を不憫で残念だと思っていた。さらに、大納言通方までもが暦仁(りゃくにん)
		元年(1238)逝去したので、ますます衷心からお仕えする者もなく、不安で、何かに期待するということもできず、また世間との交際
		も断ち切れず、はなはだ世間体も良くなく、さぞや情けなく思っている事であろう。
		母は土御門内大臣通親の子、宰相中将通宗(みちむね)といい、夭折した人の娘である。その母までなくなったので、宰相通宗の姉妹
		の姫君が御乳母のようにして、さも叔母の瞿曇弥(きょうどんみ)が釈迦尊を養ったような形になっていた。
		2歳で父土御門天皇に生別したので、父の顔さえ覚えていないが、存命であればそのうち会えることもあるだろうと、幼い心にかけて思
		い続けていたが、12歳の折、父上皇崩御の報を伝え聞いた後は、いよいよ世の辛さを思って消沈したが、それでもけなげに振る舞って
		いるのを、祖母の承明門院は心痛の面もちで見ていた。(以下略)

 


「写真提供:(株)柳井」

		後嵯峨天皇は幕府の意向で即位したこともあって、幕府との関係はすこぶる円満であったと言う。文永五年(1268)出家して法皇とな
		り、同9年(1272)2月17日、嵯峨如来寿院で崩御した。



「写真提供:(株)柳井」



★第90代 亀山(かめやま)天皇  亀山陵

		後嵯峨天皇の第3皇子。名は恒仁(つねひと)、後深草天皇同母弟。在位15年で譲位。院政をとり、のち出家。

		建長元年(1249)5月27日、外祖父西園寺実氏の今出川第で誕生、直ちに親王宣下があり、父上皇、母大宮院にこよなく愛され、10
		歳の時皇太弟に立てられる。正元元年(1259)兄後深草天皇が病気の際、譲位されて即位した。
		後嵯峨上皇は、亀山帝の皇太子にその皇子・世仁(よひと)親王をたてて、持明院統と大覚寺統の対立にさらに拍車がかかった。この
		事を恨み、ますます激昂した後深草帝は出家をほのめかす。この事態に同情した鎌倉幕府が仲裁に入り、後宇多天皇(世仁)の次には
		後深草上皇の皇子・煕仁(ひろひと)王が立つ事になる。後の伏見天皇である。
		こうした経緯のもと26歳で即位した亀山天皇は、才知豊で人望厚い帝だった。この帝が退位して上皇となってから、蒙古襲来が起きて
		いる。院は一族を集め、国と臣民のために「敵国調伏」を一心に祈祷し、祈願は成就する。


		蒙古襲来(もうこしゅうらい)
		亀山天皇は父上皇崩御の時二十四歳であったが二十六歳の正月(文永十一年=1274)に位を皇太子(八歳)に譲り、院政を行なった。
		この年はかねて来襲の噂があった蒙古軍の北九州侵人があった。七年後の弘安四年(1281)には蒙古の大軍が再びわが国に迫った。
		亀山上皇は伊勢神官へ敵国降伏を祈願するための勅使を派遣、宸筆の願文には身命にかえて国難撃攘を祈願する文言が書かれてあった
		といわれる。また石清水八幡宮にも行幸し、西大寺長老叡尊(えいぞん)をして真読(しんどく)の大般若経(だいはんにゃきょう)
		を供養し、敵国降伏を祈願したと伝えている。


 



		持明院統派と大覚時統派の始まりに関する物語もまた、多くの歴史ファンにとって想像力を巡らす格好の題材である。後嵯峨上皇は
		どうして弟ばかりを可愛がったのか? やがて武士達をも巻き込んだ一大天皇家内乱(南北朝の戦い)へ発展していくその萌芽は、
		いかにして発生したのか?

		 天皇家の物語は、必ずしも天皇家内部だけにはとどまらない。武士達や、勿論一般の民衆まで巻き込んだ物語を多くの場面で創出して
		いるのであるが、しかしその「根」ともいうべき事件の発生は案外一人の人間の「好き嫌い」や「嫉妬」や「好色」だったりして、帝と
		いへどもその心象世界は殆ど一般大衆と変わらない事を我々は知るのである。このケースの場合について、学識者の意見を見てみよう。



		肥後和男編『歴代天皇紀』(秋田書店.昭和47年.水戸部正男執筆部分)
		水戸部正男氏の見解   後深草上皇の遺恨

		天皇御名は恒仁(つねひと)、後嵯峨天皇弟三皇子で、後深草天皇同母弟である。建長元年(1249)五月二十七日、外祖父西園寺実氏
		の今出川第で隆誕、直ちに親王宣下があり、父上皇、母大宮院にこよなく愛され、十歳の正嘉二年(1258)八月七日、皇太弟に立てら
		れ、あくる正元元年(1259)十一月二十六日、兄後深草天皇がたまたま病気をした時、譲りを受けて践祚、即位式を太政官庁にあげた。
		すなわち亀山天皇である。
		しかしこの偏愛に出た措置は深刻な皇位継承争いの出発点となった。後深草上皇はこの時十七歳、深い怨みを抱いた。しかもその怨みをま
		すように、文永四年(1267)亀山天皇の第二皇子世仁親王の誕生を見ると、皇子が皇后腹であるところから、後嵯峨上皇がその養い親
		となり、翌文永五年には早くも亀山天皇の皇太子に立てられたのである。このことは皇位が今後、兄後深草上皇の系統から弟である亀山天
		皇の系統に伝わってゆくことを示すものであった。
		この後四年、文永九年(1272)二月十七日、後嵯峨上皇(法皇)の崩御となり、遺言を四十九日に当る四月七日に開封したところ、
		「治天の君」を誰方にするかは必ずしも明確にはされていなかったが、遺領の分配においては、亀山天皇が兄後深草上皇に比してはるかに
		多く、相続分のみからいえば亀山天皇が嫡子たる待遇を与えられたのである。すなわち亀山天皇には冷泉殿御文庫、讃岐と美濃の国衙領、
		和歌、蹴鞠の文書を与えられたのに対し、後深草上皇には熱田社領、播磨社領、措磨国衙領、肥前神崎庄、諸家の記録が譲与された。しか
		も治天の君には六勝寺とその寺領、鳥羽殿を贈られることになっていたから、やがて幕府が大宮院から故上皇の意思が亀山天皇にあったこ
		とをきいて、亀山天皇を治天の君と決定、院政されることになったから、将来は経済的にも莫大な所領を相続し、政治上の地位にも就くと
		いうことになって、兄後深草上皇の怨みはいよいよ深いものになったのである。
		亀山上皇は院政を行なうこと十三年、幕府の提案によって、大覚寺統と持明院統との迭立の議が定まり、弘安十年(1287)十月二十一
		日、後宇多天皇が譲位、後深草上皇の皇子煕仁(ひろひと)親王が即位して伏見天皇となるとともに、中院(なかのいん)と称し、院政を
		やめ、正応二年(1289)九月七日には 薙髪(ちはつ)して法皇と称し、嘉元三年(1305)九月十五日、宝算五十七をもって崩じた。
		荼毘(だび)に付し遺骨は浄金剛院、亀山殿法華堂、南禅寺、全剛峯寺に分葬したが、法華堂をもって山陵とした(京都府右京区嵯峨天竜
		寺芒ノ馬場町)。亀山院の追号は御在所の名(亀山殿)に因んだものである。
		 天皇の著作には、『亀山院御集』、『亀山院御百首』、『極楽直道抄』等がある。天皇の時代はわが国臨済禅の勃興期で、無学祖元、一
		山一寧ら中国僧の渡来も多く、天皇は禅宗を保護され、自ら大いに学ばれた。円爾弁円(べんねん)などは特に天皇の敬愛された禅僧であ
		った。天皇は東山に禅林寺殿を営まれ、ここで多く政務をみられたが、これが後に南禅寺の基となった。創立は正応四年(1291)のこ
		とであった。



		黒田俊雄 「分裂する天皇家」(『蒙古襲来』.中公バックス日本の歴史G.324p以下)

		後嵯峨院政のあとを承くべき候補とみられる者は二人あった。第一には、後嵯峨院の第三子でそのあと皇位につき、いまはすでに譲位して
		いた後深草上皇であり、第二には、第七子でいま皇位にある亀山天皇である。父の後嵯峨院は、この二人の在位中も政務の実権を掌握して
		院政をみたわけであるが、院は兄の後深草上皇よりは弟の亀山天皇を愛し、すでに兄から弟へ皇位をゆずらせたのみならず、やがて亀山天
		皇の皇子世仁親王(のちの後宇多天皇)が生まれると、生後一年にもならないうちに皇太子にたてた−すでに後深草上皇に皇子(煕仁親王。
		のちの伏見天皇)があったにかかわらず−のであった。
		そのようないきさつであってみれば、後嵯峨法皇の遺勅に、兄の後深草院と、弟ではあるが、より寵愛ふかく、現に在位中の亀山天皇との
		いずれが政務を継承するように定められていたか、いいかえれば、後深草上皇の院政が実現するか、亀山天皇の親政となるか、ひいては皇
		統の将来をどちらと指定してあったか−が貴族たちのつよい関心をあつめたのもむりからぬことであった。
		ところでその遺勅の内容について、古い史書が伝えるところはきわめて暖味である。しかしながら、これから後の天皇家の歴史をたどって
		みると、遺勅の内容がはなはだ重大な影響をもったらしいことが容易に理解できる。というのは、これこそが百余年にわたる天皇家分裂の
		端緒をなすからである。
		そこで、その真相を解明しようとして早くから歴史家の探究がかさねられたが、明治時代の学者は『梅松諭』『増鏡』など南北朝時代の史
		書の記述によって、おおむねつぎのように考えていた。すなわち皇位は亀山天皇の子孫にのみ伝え、後深草上皇の子孫にはその代わりに長
		講堂領と呼ばれた一八〇か所におよぶ荘園(天皇家に伝えられた荘園)を授けるという内容の遺勅があった−というのである。
		しかし、当時からそれほどに関心が寄せられていたのに、こんにち明らかにされているかぎりでは、実際は遺勅の内容はそれとはほど遠い
		ものであった。『伏見宮記録』『五代帝王物語』など、より信頼しうる記録によれば、事実はおそらくこうである

		「治天の君」
		わたくしは、「治天下」という言葉を「政務の実権をとる者」という曖味な説明ですませてきた。だがそういう説明ではじゅうぶんとはい
		えないであろう。なぜなら「政務の実権」といっても、後嵯峨法皇から亀山天皇へ引き継がれたものを院政というわけにもいかず、天皇の
		位というわけにもいかない。いわばそういう語では表現できないある種の地位であり、権力であるからである。
		ところが、このどうも適切な呼びかたがないものを的確に理解しないと、中世の天皇家の歴史や本質はけっして理解できないのである。
		それは、ほんとうはたいしてむずかしいことではないのだが、天皇家は「万世一系」であり、天皇は最高権力の地位にある者と単純にみる
		見かたに災いされて、一般には理解しにくくなっているのである。この、院政ともいえず皇位ともいえないものとは、ひとくちにいえば
		天皇家の家長権である。家督権といってもよいし、当時の言葉でいえば惣領権といってもよい。それを明らかにするために、時代の範囲は
		ひろくなるが次ページの表をみていただきたい。( 表は省略。)
		これはいわゆる院政と親政との推移を示したものである。普通、常識的には、院政とは譲位後の上皇が政務をみることであるといわれ、白
		河上皇以後の平安末期を院政期などと呼ぶ。けれどもその時期でもかならずいつも院政が行なわれたわけではなく、また院政を行なうのは
		上皇のうちでも特定の人物にかぎられている。しかも院政は、いわゆる院政期(平安末期)だけでなく中世を通して断続してみられるので
		ある。<白河上皇(1053〜1129.77歳) >
		ところがこの一見不規則にみえる状態を、同じ人物の親政と院政とをまとめてみれば、きわめて明確な区切りと継承関係が見出されるのが
		わかるだろう。わたくしは、この親政と院政とを一括した期間の地位を、ここでは細説しないが他のもろもろの条件をも考えあわせて天皇
		家の惣領の地位と断定する。
		そこで、あらためて天皇家の惣領を中心にみなおしてみると、天皇・上皇あるいは親政・院政などの関係はつぎのようになる。惣領たる者
		が天皇の位にあれば親政、上皇の位にあれば院政と呼ばれる。逆にいえぱ、惣領でないものが天皇であろうと上皇であろうと、また上皇が
		何人あろうと、それは親政か院政かをきめる条件にはならない。したがって惣領であることに「政務の実権」があるのであって、かれが天
		皇か上皇かは実権には関係がないのである。惣領は、惣領の権限によって、自分が天皇になるか、さもなければ天皇家の諸皇子のうちから
		天皇になる者をえらんでつぎへ譲位させる。つまりこれは、天皇の位そのものは形式的・官職的な地位であって、実権は惣領たることにあ
		るからである。ただし実権といっても、それは天皇家の実権であって、国全体の政治のうえでどれだけの権力をもちうるかは別である。
		それは摂関家や幕府などとの政治的・社会的勢力関係によってきまる。
		こうしてみれば、この時代の天皇の地位は要するにひな祭の「内裏様(だいりさま)」と同じことである。それにひきかえ天皇家の惣領の
		地位は、形式上国王という最高の地位につく人物を出す大名門家族の家長であり、厖大な荘園を直接・間接に支配する最高・最大の領主で
		ある。天皇制はまったく形式と化しているが、天皇家は最高級の権門・勢家の一つとして存在したのである。
		中世において「治天の君」「治天下」「世をしろしめす」などといわれたのは、このような天皇家の惣領、つまり院政を行なう上皇、また
		は親政を行なう天皇をさして用いられたのであった。そして、ここまでいえばすでに気づかれたこととおもうが、つまりは北条氏のばあい
		でいえば「得宗」にほかならないのである。
		後嵯蛾天皇の院政から亀山天皇の親政へと継承されたものは、実にこのような天皇家の惣領の地位と権力とであったのである。


 


		上記の、黒田俊雄氏の「惣領論」とも言うべき発想は非常におもしろい。 「帝」(或いは天皇)という機関のもつ権力構造を見事に言い
		当てているように見える。しかしながら、武士達が実権力を握り天皇家の相続にまで口を挟むような時代になっても、天皇家内部の事は内
		部の事として独立しているのがまた何とも面白い。
		俄歴史ファンの私には、実際のところこの頃の世情がどんなものであったかについて確たるイメージは脳内に構築できないが、当時の「武
		士」と「天皇」の関係は、何となく一昔前の「会社側」と「組合」の関係に似ているなという気がした。





		竜安寺からまっすぐ南へ下れば「京福電鉄」の「りょうあんじみち」駅である。これで「嵐山」へ出るか、それとも「大宮」へ行って阪急
		電車に乗るか、或いは駅を通り越してバスで京都駅へ向かうかだなぁ。



2004.5.17 福岡市東区「東公園」

		
		叔父の葬儀で博多へ帰った。斎場のすぐ側が「東公園」だった。そこに亀山上皇の巨大な銅像が建っていた。昔はここにこんなものが
		立っていたなんて気づきもしなかった。「敵国降伏」で博多の町を救った上皇を、博多の市民は今でもあがめているのである。

 

 

 





 

台座の裏には製作者名と刻んだ石工達の名前が彫られている。
上右の写真の雲を見ると、上皇が今でも博多の町を守っているような気になってくる。



銅像建立場所の全体像と、それを背後から見たところ。





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