Music: Night

第77代 後白河天皇
2001.July 8 京都市東山区 法住寺陵




				【第77代 後白河(ごしらかわ)天皇】
				別名: 雅仁(まさひと)
				父:  鳥羽天皇  第4皇子
				母:  藤原璋子(待賢門院璋子)
				生没年:大治2年(1127) 〜 建久3年(1192)(66歳)
				在位: 久寿2年(1155) 〜 保元3年(1158)
				皇后: 藤原忻子、平滋子、藤原懿子、
				皇妃: 原j子、藤原成子、高階栄子、他
				皇子女:守仁親王(二条天皇)、守覚親王、以仁王、円恵親王、定恵親王、憲仁親王(高倉天皇)、
				    静恵親王、道法親王、承仁親王、亮子内親王、好子内親王、式子内親王、休子内親王、
				    惇子内親王、観子内親王、恒恵、真禎 
				皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				御陵: 法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ:京都府京都市東山区三十三間堂廻り町)






		第77代 後白河(ごしらかわ)天皇(1127〜1192)
		近衛天皇の異母兄。崇徳上皇の同母弟にあたる。在位はわずか3年だが、その後実に5代に渡って院政を敷く。強大な権力をもち、
		37年に渡った天皇・院政期間には、兄である崇徳上皇との戦い(保元の乱)、平治の乱、平家滅亡、鎌倉幕府成立、などにかかわ
		り、波瀾激動の生涯を送った。 造寺、造仏にも力をそそいだ。



 

		院政の続く天皇家の内部抗争と時を同じくして、藤原摂関家でも家督争いが起きていた。藤原忠実は長男の忠通より次男の頼長の方
		を寵愛し、一度は忠通に家督を継がせて近衛天皇在任中に忠通が関白を務めるが、事ある毎に引退をすすめる。しかし忠通は拒否し
		続け、とうとう忠実は忠通を勘当して頼長を内覧にしてしまう。関白の忠通とは別に内覧もいるという奇妙な事態が発生する。
		一方頼長は、せっかくの地位まで昇りながら、鳥羽上皇の寵臣と喧嘩し、乱闘騒ぎを起こして鳥羽天皇の信頼を失ってしまう。更に
		1155年、近衛の後継者をめぐっては兄の忠通が推薦した後白河天皇が即位してしまう。そしてその年の暮、頼長が拠り所としていた、
		妹で鳥羽上皇妃の高陽院泰子が死去してまう。更に、近衛天皇が死んだのは忠実・頼長親子が呪詛を掛けたからだ、という噂が流布
		する。頼長の命運はまさに尽きようとしていたのである。

 

		一方源氏においても、かって「天下第一の武者」と言われた源義家の子孫「為義」の時代には、清和源氏の地位もかなり凋落し不遇
		の状態にあった。1154年には息子の「為朝」の狼藉のため、「為義」の官位は取り消されていた。
		結局の所、平安時代の終章の幕開けとなる保元の乱は、時代の不満分子が大集結して時の権力に反抗した、いわば「やぶれかぶれの
		大喧嘩」とも言える。

 


		鳥羽法王の死後、即位した後白河天皇が遭遇した最初の重大事件が、憤懣の極みに達した崇徳上皇と失脚した藤原頼長らによる「保
		元の乱」と呼ばれるクーデターである。
		保元元年(1156)年7月2日、鳥羽上皇が死去。翌7月3日。崇徳上皇側に不穏な動きがあり、後白河天皇は先手を打って崇徳側の
		行動を制止しようとするが、崇徳上皇側の兵力は、源為義・為朝親子や平忠正らが参じて、最終的には1週間で千騎に達したと言う。
		一方藤原忠通は、鳥羽上皇の前で後白河天皇に忠義を誓った源義朝や平清盛らを呼び集め、宮中の警備を行う。7月11日未明、後
		白河天皇側は機先を制し、崇徳側の集結場所を急襲した。不意を突かれた崇徳側はなし崩しに敗れ、戦いは4〜5時間で決着した。
		午前8時頃には全てが終っていたと言う。結果として、崇徳側の大敗。崇徳天皇は讃岐(現坂出市)に流され、藤原、平家、源氏の
		家臣達は死罪となる。首をはねるのは皆、勝った側の肉親という悲惨な断罪であった。

		「保元の乱」の推移からは、1週間加勢を待っていた崇徳上皇側の行動に対し、後白河・忠通側は常に先手・先手を打っており、こ
		こに見える決断力と行動力は、後白河天皇という人はもしかしたら相当したたかな人物だったのかもしれないという気を抱かせる。




		流された崇徳上皇は、3年がかりで五部大蔵経(ごぶだいぞうきょう)を写し、京の安楽寿院(あんらくじゅいん)に納めてほしい
		と後白河帝に送るが突き返される。度重なる帰京の要請もことごとくはねつけられており、怒った崇徳上皇は、経の最後に誓文を血
		書して憤死した。この写経は、その後弟の覚性法親王(かくしょうほつしんのう)へ送られるが、そこにはこう書かれていたという。
		
		「われ日本国の大魔縁なり。天皇を民とし、民を皇帝とする。」
		
		まさに、呪いの文言であった。その後上皇を荼毘(だび)にふすと、その煙がはるか都にたなびいたと言う。地元坂出市では今でも、
		崇徳上皇の死は、後白河帝の差し向けた刺客による暗殺であると語り継がれている。以後、都で起こる災厄はことごとく崇徳上皇の
		祟りとされ、それを恐れた朝廷は崇徳院を追尊している。



		
		後白河帝は「保元の乱」後、二条天皇に譲位して院政をしくが「平治の乱」が勃発し、一時源義朝に囚われの身となった。平清盛に
		よって乱は治まるが、これにより、武家が摂関・天皇をしのぐ実力者として初めて歴史の表舞台に登場する事になる。平家が源氏を
		押さえつけ清盛が権力をふるうが、その専横を危惧する勢力は平家討伐の謀略(鹿ヶ谷の陰謀)を図る。後白河上皇もこれに荷担し
		たが、平重盛の諫言でからくも難を逃れた。しかし重盛の死後その領地を後白河上皇が没収したため、怒った清盛は後白河上皇を幽
		閉し、院政はいったん中断する。後白河上皇の幽閉は、反平家勢力に蜂起の格好の口実を与えた。治承4年(1180)4月、源三位頼
		政が後白河帝の第五王子以仁王(もちひとおう)を擁して挙兵し、全国の源氏に「平家討伐」の檄を飛ばした。伊豆で源頼朝が、信
		濃で木曽義仲が、甲斐で武田信義が挙兵した。以後数年に及ぶ、武士達による内乱が開始された。

 



		
		平家一門は安徳天皇をいただいて西国へ落ち延びるが、後白河上皇は天皇の京外脱出という異常事態に、高倉天皇の末子、後鳥羽天
		皇を即位させる。安徳天皇は「三種の神器」を持ったまま、皇位を失った。
		清盛の死後院政を再開し、源頼朝と結んで平氏を排除した後白河上皇だが、頼朝の征夷大将軍就任には最後まで反対し、帝の死後頼
		朝の就任が実現している。帝は新旧諸勢力を巧みに利用し、長講堂など巨大荘園を背景に専制君主として政治に挑み、頼朝をして、
		「天下の大天狗」と言わしめた。後白河上皇は建久3年(1192)65才で崩御したが、その直後に源頼朝が鎌倉幕府を成立させてい
		る。平家滅びて源氏の世となるが、武士の主導権はもう揺るがなかった。以後明治維新を迎えるまで、700年に渡って武士が日本の社
		会を支配する事になる。

		後白河法皇は、建久3年(1192)3月13日、六条殿(六条西洞院殿、左京六条二坊十三町)に崩じ、遺体は「蓮華王院東法華堂」
		に葬られた。



 



御陵の向かい側が、有名な国宝「三十三間堂」である。突き当たりに「京都国立博物館」が見えている。





		
		帰りに博物館に寄ったら、以前OKだった写真撮影が禁止されていた。窓口で言われ、事務所を訪ねて詰問したが、「そういう方針
		になりました。」と言うばかり。なおも食い下がったので、職員はどこかへ聞きに行ったが、「やはり禁止だそうです。」とすまな
		そうに答えた。管理者が交代したのに違いない。以前「写真撮影ご希望の方は申し出てください。」と書かれていた案内板の上には
		紙が貼ってあり、大きく「写真撮影禁止」と黒書されていた。学問上のたいした実績もなく、権威だけを笠に着る研究者が赴任して
		きたに違いない。


邪馬台国大研究・ホームページ /天皇陵巡り/chikuzen@inoues.net