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第18代 反正天皇
2000.Sep.24 百舌鳥耳原北陵







			<第18代反正(はんぜい)天皇>
			異称:  多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと:日本書紀)、
				蝮水歯別命(たじひのみずはわけのみこと:古事記)
			生没年: ?年 〜 反正天皇5年 60歳(古事記)
			在位期間  履中天皇6年+?(反正元年) 〜 反正天皇5年
			父: 仁徳天皇 第3子
			母: 磐之媛命(いわのひめのみこと:葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘)
			皇后: 木事(こごと)の娘、津野媛(つのひめ)
			皇妃: 弟媛(おとひめ:津野媛の妹
			皇子皇女: 香火姫(かひひめ)皇女、円(つぶら)皇女、財(たから)皇女、高部(たかべの)皇子
			宮: 河内国丹比柴籬宮(かわちのくにたじひのしばかきのみや)
			   (比定地未詳だが、大阪府松原市上田町との説もある。)
			陵墓: 百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ:大阪府堺市北三国ヶ丘:南海高野線 堺東駅)




		堺東駅を天皇陵側へ降りて驚いた。駅のすぐ前に民家が密集しているのはわかるが、その民家を伝っていくとすぐ御陵の金網、濠に
		着く。御陵の廻りは寸部の隙もなく民家と道路が取り囲んでいる。上空写真で見ても濠の際まで民家が建ち並んでいる。
 


		履中天皇の実(同母)弟。「倭の五王」のうち「珍」にあたるとされている。多遅比瑞歯別尊という御名の、「瑞」が「珍」と似て
		いるからというのをその理由としている説もあるが、そんな理由でと思ってしまう。瑞歯という名前は、生まれたときから歯並びが
		きれいだったという所からきており、しかも長じては今の2mを越す長身で見目麗しい男性であったと書記は記録する。
		この帝の御代は安定しており、日本書紀にも「五穀実りて人民賑わい天下太平」とある。

 


		廻りは住宅街である。広大な墓の廻りにちまちました家が一杯建ち並んでいるのを見ると、権力者は死してもなお庶民より特権を持
		っているのかと思う。この天皇の事跡は記紀にはほとんどない。先代の履中天皇紀に、履中即位に関しての逸話が残されているくら
		いで、兄のために住吉仲皇子を討ったその功績により、履中天皇の実子をさしおいて、履中天皇在位中に皇太子に立てられた。




		古事記の反正天皇の段には、
		「水歯別命(みずはわけのみこと)(反正)、多治比(たじひ)の柴垣宮に坐(いま)しまして、天(あめ)の下治めたまひき。此の天皇、
		御身の長、九尺二寸半。御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉(ととの)ひて、既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如くなりき。天皇の
		御年、陸拾歳(むそち)ぞ。御陵は毛受野(もずの)に在り」

		とあり、日本書紀の反正天皇元年条には、
		「冬十月に、河内の丹比に都つくる。是を柴籬宮と謂す。是の時に當りて、風雨時に順ひて、五穀成熟(みの)れり。人民富み饒(に
		ぎわ)ひ天下太平なり」
		とある。

 


		記紀は、反正天皇が丹比柴籬宮で即位したと伝えている。大阪府松原市上田七丁目にある柴籬神社には、このあたりに丹比柴籬宮が
		あったという伝承が残っている。同社は反正天皇他を祭神としており、柴籬神社の南門に「反正天皇柴籬宮址 昭和十九年一月 大
		阪府建立」の石碑があり、西鳥居前にも「丹比柴籬宮址 大正八年 大阪府」の石碑が建てられている。この伝承が事実であれば、
		大和王権の宮城が河内におかれた初源となるが、考古学的には現在の所、宮の存在を確かめる遺構や遺物は発見されていない。
		地元には宮号を引き継いだ神社名や、神社西方に反正山(はじやま)の地名が残る事などから、宮跡の有力な候補地であると主張して
		いる。



田出井山古墳(反正天皇陵)


		百舌鳥3陵の一つで、百舌鳥古墳群の北端にある。墳丘長148mの前方後円墳。三段になっている墳丘の西側に造りだしがついてい
		る。5世紀後半の古墳とされているが、内部施設、出土品などは一切知られていない。前方部の外側で、幅11.5mの外壕が確認さ
		れているので、もしかしたら多重の周壕を持った古墳だったのかもしれない。
		大山古墳(仁徳天皇陵)の1/3ほどの大きさで、百舌鳥の天皇陵では小さいほうである。古墳の形からニサンザイ古墳(履中陵)
		と同時期と考えられており、ニサンザイ古墳を反正天皇陵と考える学者もいる。別名:楯井古憤。







		【水齒別命】反正天皇 (古事記)

		弟水齒別命、坐多治比之柴垣宮、治天下也。
		此天皇御身之長九尺二寸半。御齒長一寸廣二分。上下等齊、既如貫珠。
		天皇、娶丸邇之許碁登臣之女、都怒郎女、生御子、甲斐郎女。次、都夫良郎女。【二柱】
		又娶同臣之女、弟比賣。生御子、財王。次、多訶辨郎女。并四王也。
		天皇御年陸拾歳。【丁丑年七月崩。】御陵在毛受野也。



		【水齒別命(みづはわけのみこと)】反正天皇

		弟、水齒別(みづはわけ)の命は多治比(たじひ)の柴垣の宮に坐しまして天の下治しめしき。
		此の天皇は御身の長(たけ)、九尺二寸半(ここのさかふたきなかば)。御齒の長さ一寸(ひとき)、廣さ二分(ふたきだ)。
		上下(かみしも)等しく齊(ととの)いて既に珠(たま)に貫(ぬ)けるが如し。
		天皇、丸邇(わに)の許碁登(こごと)の臣の女(むすめ)、都怒(つの)の郎女を娶りて生みし御子は甲斐(かい)の郎女。
		次に都夫良(つぶら)の郎女【二柱】。
		また同じ臣の女(むすめ)、弟比賣(おとひめ)を娶りて生みし御子は財(たから)の王。次に多訶辨(たかべ)の郎女。
		并せて四はしらの王。
		天皇の御年は陸拾歳(むそとせ)【丁丑(ひのとうし)の年の七月(ふみづき)に崩(かむざ)りき】。
		御陵は毛受野(もずの)に在り。


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