Music: Anna

伊勢神宮
三重県伊勢市 2000.2.1 & 2003.3.22 再訪 &  歴史倶楽部73回例会 2003.6.8 






		三重県伊勢市に鎮座する「伊勢神宮」は、正式にはただ「神宮」と呼ぶ。皇太(こうたい)神宮(内宮)と、豊受(とようけ)大神宮
		(外宮)、14の別宮、その他脇宮を合わせて125社から成っている。内宮には皇祖神「天照大神」を「八咫の鏡」とともに祀り、外宮に
		は天照大神の御饌都神(みけつかみ:平たく言えば食事係。)である豊受大御神を丹波より迎えて祭神としている。内宮は垂仁天皇の
		御代に今の場所に移され、平成8年に鎮座2000年を迎えた。外宮は雄略天皇の御代に創祀された。



− 外宮 −

大阪または名古屋方面から近鉄特急にのり「伊勢市駅」で降りる。外宮には伊勢市駅が近い。内宮は「宇治山田駅」である。

 

伊勢市駅まえの参道を5,6分も歩くと外宮である。

 

 



 


伊勢神宮
久しぶりに伊勢神宮に行ってきました。「伊勢神宮ですかぁ。修学旅行で行ったけど・・・」と怪訝な顔の学生くん達。考古学をやっている私が、なぜ伊勢神宮に興味があるのか、ピンとこないようです。 伊勢神宮は、古代の宝庫です。神さまの食事を作る時には、火キリ杵と火キリ臼を使って木と木をすりあわせて火をおこし、素焼きの土器(カワラケ)にトクラベの葉を敷いて盛りつける。古代人たちの姿が思い浮かびます。その土器が使い捨てであることも、古代の祭祀のあり方と同じです。食事に使われる塩や米、お酒などが古い技法や儀式にのっとって作られていることはよく知られていますね。  ご神宝や調度品が展示される徴古館では、現代に生きる考古資料の姿を見ることができます。「赤紫綾御蓋」や「羅紫御翳」は、古墳時代の埴輪や高松塚古墳の壁画にあるキヌガサ(日傘)とサシバ(扇)。どちらも貴人にさしかけるものです。飾り大刀にも、古墳時代の出土品や埴輪の伝統がうかがえます。とくに「玉纒の御大刀」には、二匹一対の鮒形がついています。豪華な副葬品で有名な奈良県の藤ノ木古墳で出土した大刀にも、二匹一対の金銅製の魚が紐でつながれていてました。古墳時代の伝統がいまなお受け継がれていることがよくわかります。 さて、ブル−ノ・タウトが「世界の建築の王座」と絶賛した神宮の建物群は、白木の高床式掘立柱建物に萱葺き屋根。屋根には、立派な鰹木がのっています。現在は部分的にあでやかな金銅の金具で飾られているとはいえ、弥生時代や古墳時代の絵画や埴輪にみられる建物とそっくりです。 平成5年に式年遷宮がおこなわれました。神宮の建物と、御装束・御神宝を20年ごとにすべて作り替えるという一大イベントです。天武天皇が定めたこの制度は、天武天皇の皇后だった持統天皇の時に第一回めがおこなわれ(692年)、今回が六一回めでした。戦乱などで苦しい時代をくぐりぬけながらも、この制度が今日まで維持されてきたおかげで、日本の伝統的な建築・工芸・織物などの技術が残されてきたといってもいいでしょう。  式年遷宮がなぜ20年ごとなのかついてはいろいろな意見がありますが、そのひとつに、建物の耐用年限だという見方があります。そこで、遷宮直前という時に、伊勢神宮を訪ねてみました。20年で掘立柱建物や萱葺き屋根がどれほど傷むかということは、弥生時代や古墳時代の建物を考えるうえでも参考になります。遷宮を目前にした神宮の建物のなかには、屋根がぐにゃっとたわんでしまったり、柱の根元が腐って傾いたりしたものがありました。とくに萱葺き屋根は傷みやすく、10年ほどで修理が必要になる建物もあるようです。一般の民家では囲炉裏の煙が防虫効果となって長持ちしますが、神宮ではそうはいきません。とはいえ、式年遷宮を迎えても、まだ使える建築材はたくさんあります。それらは、全国各地の末社に払い下げられ、第二、第三の人生(木生?)を送ります。  その一例が、勢和町の丹生神社にあります。丹生は水銀のこと。伊勢は水銀の産地として古代から有名で、その水銀鉱山のふもとにある神社です。丹生神社の拝殿は、昭和五年の式年遷宮の時、外宮の御正殿の傍らにたつ東宝殿の建物を移築したものです。神主さんが、扉をあけて拝殿を間近で見せてくださいました。屋根と柱の根元は修理されていましたが、建物は90年近くたっているとは思えないほどきれいで驚きました。  木造建築の寿命の長さは、法隆寺をはじめ千年以上の歴史をもついくつかの寺院が証明しています。これは、木造建築の素晴らしさだけでなく、古い伝統を残しながら修理し、維持・管理していくわが国の技術が優れていたことの証です。  一方、今回訪れた神宮は新築の白木が美しく、とても清々しい雰囲気でした。神宮ではむしろ、白木や萱葺き屋根の美しさや清々しさを保つために、20年ごとの建て替えがおこなわれるのだろうなと思いました。
(佐古和枝 読売新聞(大阪版夕刊連載「古代のアングル」96年7月5日より)


 

 

 

 


		神宮の建築様式は「唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)」と言い(伊勢)神宮だけに用いられる呼称。柱はすべて掘立式、萱葺き屋
		根。棟上に堅魚木(かつおぎ)を置き妻の上にはV字型に千木(ちぎ)が出ている。ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが「建築の究極、
		極致的美」と絶賛した。





− 別宮 −

 

 

 

 


		外宮前から内宮へのバス便があるが便数はさほど多くない。タクシーでも内宮まで5,6分(5k)である。私は、単に近いところで降りただけ
		なのだが、外宮から内宮と廻るのが正しい廻り方とものの本にあった。



− 内宮 −

 




		古来より神宮の祭祀は天皇が直轄するものであり、天皇の名代として未婚の皇女が齊宮(齊王)として祭祀に奉仕していた。「壬申の乱」
		において伊勢神宮は大海人皇子(天武天皇)に加勢したため天武天皇は恩義にむくい、以後伊勢神宮を正式に天皇家の守護社とした。また
		長らく途絶えていた齊宮も復活し、20年毎に社殿を建て替えるという式年遷宮(しきねんせんぐう)の制度も定めた。これは一部戦国時代
		の混乱期には中断されるが、天武天皇の后、持統天皇が7世紀末に第1回目の遷宮を行なって以来現在まで続いており、直近では平成5年に
		第61回の式年遷宮がおこなわれた。

 

五十鈴川にかかる宇治橋を渡って本殿へ向かう。

 

 

御手洗場を通り、本殿までの深い森を歩いていく。橋から10分ほどで本殿に着く。

 




		元々は「紙幣禁断」といって、神宮に幣物を捧げる事も天皇だけに許された祭事であった。皇后や皇太子でさえ勅裁を得ずして奉献する
		事は許されていなかった。しかしやがて参詣者があらわれ平安末期には各地に神明社が勧請され、中世以後は御師(おし)と呼ばれる下
		級神職が全国の崇敬者達と謀って毎年お札を祀り、「伊勢溝」と呼ばれる今で言えば「伊勢神宮参りツアー」の「溝」を全国で組織化した。
		江戸時代に入っても「伊勢溝」は衰えを見せず、多くの参拝者が伊勢神宮を訪れる。なかでも「お陰参り」と呼ばれる群集の熱狂的な参拝
		ツアーが、慶安3年(1650)以来ほぼ60年周期で繰り返されている。

 

 

 

 

 

 


		内宮は宇治山田駅が一番近い。五十鈴川駅でもいいがここには特急はとまらない。内宮へは両方からバスの便がある。下はまるで中国かど
		こかの建物のような宇治山田駅。ここからは1時間半弱で大阪難波に着く。











2003.3.22 伊勢神宮再訪


		近鉄電車の「まわって・・」という、伊勢・志摩お得切符を買って鳥羽に遊びに行った。そのエリア内であれば、特急はどこで乗っても降
		りてもいいというので、伊勢神社に行ってみた。前回行った時から遷宮していた。遷宮の跡はどうなっているのかが前から気になっていた
		ので、今回はそこを主に見に行ったが、小石が敷き詰められていただけだった。遷宮の由来は一体どういう事なのだろうか。諸説あって、
		どの説もそれらしく思えるが、ほんとの所はわからない。

 


内宮



五十鈴川駅でおりて、これもただという三重交通バスに乗って内宮へいった。バスの待合所もレトロだ。



 

上左が前回来たときの内宮の跡だ。こっちからは立ち入り禁止だったので、裏へ廻ってみる事にした。



 

 



ここが前回内宮があった場所である。更地にして小石が敷き詰めてある。隣へ宮を移すというこの制度は、ほんとにその起源が謎である。

 

一体何のために20年ごとに宮殿を移す必要があったのだろう。心機一転するにしても、どうして20年ごとなのか。



いろんな本に、多くの識者が遷宮の分析をしているが、これだ!というもっともらしい説はないような気がする。

 





外宮



外宮も遷宮していた。写真の左手に空き地がある。おおいなるムダのような気もするが、何時来ても新しい宮殿なのは気持ちがいい。




		HPをloadした後、伊勢の羽田さんと仰る方からmailを頂いた。な、なんと「最後の写真、外宮の御正殿まえの蕃塀横で、
		青いジャンパーで、三名の方に話をしている姿が映っていますが、どうもこれは私みたいです。」という事だった。驚いて
		しまった。羽田さんはボランティアで伊勢神宮のガイドをされている方で、「黒木の鳥居」など、神社の様式にも色々とご
		興味がおありのようだった。二三度mailのやりとりをしたが、どこで見られているかわからんなぁ、と思ったものだ。
 
		「すみません勝手に撮して。でもどうせならお顔が写っていれば良かったですね。また伊勢神宮へ行くことがありましたら、
		是非お尋ねしたいと思います。」
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		 井上筑前 himiko@zeus.eonet.ne.jp
		      http://www.inoues.net
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歴史倶楽部73回例会 2003.6.8



猿田彦神社


		<猿田彦神社本殿>
		
		<主神>猿田彦大神 <相殿>大 田 命
		本殿は二重破風(にじゅうはふ)の妻入造り(つまいりづくり)で“さだ ひこ造り”と称し、特殊な建築美を誇り、祝詞殿(のり
		とでん)は、優雅な平 安時代をしのぶ寝殿造りである。

 




		<猿田彦神社由来>
		猿田彦大神は天孫降臨の時、天八衢(あめのやちまた)に待ち迎えて、啓行をされ、天孫を高千穂へと導かれてから、天宇受売命
		(あめのうずめのみこと)に送られて、伊勢の五十鈴の川上に来られ、ここを中止に広く国土を開拓指導された地主の神で、皇大
		神宮がこの地に鎮座されたのは天上からの幽契(ちかい)によると古書に伝えられております。垂仁天皇の御代に皇女倭姫命が神
		宮鎮祭の地を求めて諸国を巡歴された時に、猿田彦大神の御裔(みすえ)の大田命がお迎えして、大神以来守護して来た五十鈴の 
		川上の霊域を献上して、伊勢の神宮を創建申し上げました。大神と大田命との子孫は宇治土公と云い以来永く玉串大内人と云う特
		殊な職承に任ぜられて代々奉仕してきました。御神徳高い大神は佐田大神、千勝大神、白鬚大神、導祖神、さいの神、庚申さま等
		々として津々浦々にお祀りされますが、日本書紀にも伝えられている通り、大神本拠の地であり大神の末孫宇治土公家の累代奉祀
		する最も特色のある本社であります。大神は古来物事のはじめに災害を祓い、万事最も善い方へみちびき給うとされ、特に地祭方
		除、災除、建築、移転、開業、商工業の繁栄、豊産、豊漁、開運の御祈祷を全国から出願されます。「猿田彦神社御神徳略記」。 

 

 


		<境内社 佐瑠女(さるめ)神社>

		<祭神>天宇受売命(あめのうずめのみこと)
		猿田彦大神は国の始めに天孫「ににぎのみこと」を日向の高干穂にお導きしましたが、高天原から日向への途中最もけわしい「あ
		めのやちまた」で天孫を迎えて居るときに、堂々たる猿田彦大神のお姿に多くの男神が恐れて近づけなかったのを「あめのうずめ
		の命」が大神の真意を問い正して一番よい道を開かれました。「あめのうずめの命」は猿田彦大神を伊勢まで送って来られました
		が、その時に「ににぎのみこと」から「さるめ」氏という姓をいただきました。天照大神が天岩窟の中に入ってしまわれて世の中
		が荒れ暗闇の様に成った時に「あめのうずめの命」が岩戸の前で舞踊をされ、神々が大へん喜び拍手をする様子に天照大神が不思
		議に思って岩戸から出られ、元の平和な世の中になったという神話は有名です。「あめのうずめの命」の子孫は「さるめ氏」とし
		て、国の中央の芸能を担当すると共に、広く民族芸能の中心となって来ました。「あめのうずめの命」は「わざおぎ」(俳優)の神
		として「たましづめ・たまふり」(鎮魂)の元祖と称えられます。

  





おかげ通り


		<おはらい町とおかげ通り>
		伊勢市の内宮門前町一帯は、おはらい町という名で呼ばれる。これは明治の初めまで多くの御師(おし:伊勢神宮に関わるあらゆ
		る事を商売にしていた。古くは地方へ出向き伊勢講を組織したりした。)が存在し、神宮に代わって神楽をあげたりしたが、彼ら
		の多くがここに住んでいたことからその名がついたとされている。街道には神宮関係の建物、旅館、餅屋、酒屋、薬屋、土産物屋
		などが立ち並び、当時の賑わいが偲ばれるが、実はこの町並みは近年復元されたものである。

 


		年々減少する観光客対策として、伊勢特有の建築様式である「切妻・妻入り」「入母屋・妻入り」を基本として、往時のまちなみ
		を再生しようとするまちづくり運動が、昭和54年にはじまり、その後、町並みや修景に関する要望書や請願書が市や議会に地元
		住民から提出され、ついに平成元年9月、市独自条例「伊勢市まちなみ保全条例」が制定された。さらに「内宮おはらい町まちな
		み保全地区並びに同保全計画」が告示されると、無電柱化の工事や石畳による道路再舗装の工事が行なわれ、保全地区内に住む住
		民に対しても、新・増築・改築等の修景を行なう場合は保全整備基準に基づき、伊勢の伝統的家屋形態を再現・維持することとさ
		れた。

 


		そしてこの地を創業地とする、名物菓子「赤福」で有名な株式会社赤福が、平成5年7月、総投資額140億円を投じておかげ横
		丁を開業した。敷地面積約2600坪の中に25棟の施設39店舗が営業し、この横丁のおかげで平成4年には35万人にまで落
		ちこんだ観光客数が平成13年には288万人を数えるまでに回復した。当初は50代前後をターゲットにしたということだが、
		実際には圧倒的に若いカップルや女性グループで占められている。それがまたこの落ち着いた町並みに賑やかさと、華やかさを添え
		る結果となり、多層的な町の魅力となっている。

 

 





私は今回で3度目の参拝になる。河原さんは「関西の締めくくりが伊勢神宮とは。」と感慨深そうだった。

 

 



伊雑(いぞう)神社


		馬野さんによれば、伊勢神宮の元々の神(渡来一族?)はこの地に居を構えたのだと言う。その地を祀ったのがこの伊雑(いぞう)
		神社だそうだ。馬野さんは神道にも詳しい。これからも色々と教えてもらえそうである。ここは今回訪問はしていない。
 




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