三重県伊勢市に鎮座する「伊勢神宮」は、正式にはただ「神宮」と呼ぶ。皇太(こうたい)神宮(内宮)と、豊受(とようけ)大神宮 (外宮)、14の別宮、その他脇宮を合わせて125社から成っている。内宮には皇祖神「天照大神」を「八咫の鏡」とともに祀り、外宮に は天照大神の御饌都神(みけつかみ:平たく言えば食事係。)である豊受大御神を丹波より迎えて祭神としている。内宮は垂仁天皇の 御代に今の場所に移され、平成8年に鎮座2000年を迎えた。外宮は雄略天皇の御代に創祀された。
神宮の建築様式は「唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)」と言い(伊勢)神宮だけに用いられる呼称。柱はすべて掘立式、萱葺き屋 根。棟上に堅魚木(かつおぎ)を置き妻の上にはV字型に千木(ちぎ)が出ている。ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが「建築の究極、 極致的美」と絶賛した。
外宮前から内宮へのバス便があるが便数はさほど多くない。タクシーでも内宮まで5,6分(5k)である。私は、単に近いところで降りただけ なのだが、外宮から内宮と廻るのが正しい廻り方とものの本にあった。
古来より神宮の祭祀は天皇が直轄するものであり、天皇の名代として未婚の皇女が齊宮(齊王)として祭祀に奉仕していた。「壬申の乱」 において伊勢神宮は大海人皇子(天武天皇)に加勢したため天武天皇は恩義にむくい、以後伊勢神宮を正式に天皇家の守護社とした。また 長らく途絶えていた齊宮も復活し、20年毎に社殿を建て替えるという式年遷宮(しきねんせんぐう)の制度も定めた。これは一部戦国時代 の混乱期には中断されるが、天武天皇の后、持統天皇が7世紀末に第1回目の遷宮を行なって以来現在まで続いており、直近では平成5年に 第61回の式年遷宮がおこなわれた。
元々は「紙幣禁断」といって、神宮に幣物を捧げる事も天皇だけに許された祭事であった。皇后や皇太子でさえ勅裁を得ずして奉献する 事は許されていなかった。しかしやがて参詣者があらわれ平安末期には各地に神明社が勧請され、中世以後は御師(おし)と呼ばれる下 級神職が全国の崇敬者達と謀って毎年お札を祀り、「伊勢溝」と呼ばれる今で言えば「伊勢神宮参りツアー」の「溝」を全国で組織化した。 江戸時代に入っても「伊勢溝」は衰えを見せず、多くの参拝者が伊勢神宮を訪れる。なかでも「お陰参り」と呼ばれる群集の熱狂的な参拝 ツアーが、慶安3年(1650)以来ほぼ60年周期で繰り返されている。
内宮は宇治山田駅が一番近い。五十鈴川駅でもいいがここには特急はとまらない。内宮へは両方からバスの便がある。下はまるで中国かど こかの建物のような宇治山田駅。ここからは1時間半弱で大阪難波に着く。
近鉄電車の「まわって・・」という、伊勢・志摩お得切符を買って鳥羽に遊びに行った。そのエリア内であれば、特急はどこで乗っても降 りてもいいというので、伊勢神社に行ってみた。前回行った時から遷宮していた。遷宮の跡はどうなっているのかが前から気になっていた ので、今回はそこを主に見に行ったが、小石が敷き詰められていただけだった。遷宮の由来は一体どういう事なのだろうか。諸説あって、 どの説もそれらしく思えるが、ほんとの所はわからない。
HPをloadした後、伊勢の羽田さんと仰る方からmailを頂いた。な、なんと「最後の写真、外宮の御正殿まえの蕃塀横で、 青いジャンパーで、三名の方に話をしている姿が映っていますが、どうもこれは私みたいです。」という事だった。驚いて しまった。羽田さんはボランティアで伊勢神宮のガイドをされている方で、「黒木の鳥居」など、神社の様式にも色々とご 興味がおありのようだった。二三度mailのやりとりをしたが、どこで見られているかわからんなぁ、と思ったものだ。 「すみません勝手に撮して。でもどうせならお顔が写っていれば良かったですね。また伊勢神宮へ行くことがありましたら、 是非お尋ねしたいと思います。」 ********************************** 井上筑前 himiko@zeus.eonet.ne.jp http://www.inoues.net **********************************
<猿田彦神社本殿> <主神>猿田彦大神 <相殿>大 田 命 本殿は二重破風(にじゅうはふ)の妻入造り(つまいりづくり)で“さだ ひこ造り”と称し、特殊な建築美を誇り、祝詞殿(のり とでん)は、優雅な平 安時代をしのぶ寝殿造りである。
<猿田彦神社由来> 猿田彦大神は天孫降臨の時、天八衢(あめのやちまた)に待ち迎えて、啓行をされ、天孫を高千穂へと導かれてから、天宇受売命 (あめのうずめのみこと)に送られて、伊勢の五十鈴の川上に来られ、ここを中止に広く国土を開拓指導された地主の神で、皇大 神宮がこの地に鎮座されたのは天上からの幽契(ちかい)によると古書に伝えられております。垂仁天皇の御代に皇女倭姫命が神 宮鎮祭の地を求めて諸国を巡歴された時に、猿田彦大神の御裔(みすえ)の大田命がお迎えして、大神以来守護して来た五十鈴の 川上の霊域を献上して、伊勢の神宮を創建申し上げました。大神と大田命との子孫は宇治土公と云い以来永く玉串大内人と云う特 殊な職承に任ぜられて代々奉仕してきました。御神徳高い大神は佐田大神、千勝大神、白鬚大神、導祖神、さいの神、庚申さま等 々として津々浦々にお祀りされますが、日本書紀にも伝えられている通り、大神本拠の地であり大神の末孫宇治土公家の累代奉祀 する最も特色のある本社であります。大神は古来物事のはじめに災害を祓い、万事最も善い方へみちびき給うとされ、特に地祭方 除、災除、建築、移転、開業、商工業の繁栄、豊産、豊漁、開運の御祈祷を全国から出願されます。「猿田彦神社御神徳略記」。
<境内社 佐瑠女(さるめ)神社> <祭神>天宇受売命(あめのうずめのみこと) 猿田彦大神は国の始めに天孫「ににぎのみこと」を日向の高干穂にお導きしましたが、高天原から日向への途中最もけわしい「あ めのやちまた」で天孫を迎えて居るときに、堂々たる猿田彦大神のお姿に多くの男神が恐れて近づけなかったのを「あめのうずめ の命」が大神の真意を問い正して一番よい道を開かれました。「あめのうずめの命」は猿田彦大神を伊勢まで送って来られました が、その時に「ににぎのみこと」から「さるめ」氏という姓をいただきました。天照大神が天岩窟の中に入ってしまわれて世の中 が荒れ暗闇の様に成った時に「あめのうずめの命」が岩戸の前で舞踊をされ、神々が大へん喜び拍手をする様子に天照大神が不思 議に思って岩戸から出られ、元の平和な世の中になったという神話は有名です。「あめのうずめの命」の子孫は「さるめ氏」とし て、国の中央の芸能を担当すると共に、広く民族芸能の中心となって来ました。「あめのうずめの命」は「わざおぎ」(俳優)の神 として「たましづめ・たまふり」(鎮魂)の元祖と称えられます。
<おはらい町とおかげ通り> 伊勢市の内宮門前町一帯は、おはらい町という名で呼ばれる。これは明治の初めまで多くの御師(おし:伊勢神宮に関わるあらゆ る事を商売にしていた。古くは地方へ出向き伊勢講を組織したりした。)が存在し、神宮に代わって神楽をあげたりしたが、彼ら の多くがここに住んでいたことからその名がついたとされている。街道には神宮関係の建物、旅館、餅屋、酒屋、薬屋、土産物屋 などが立ち並び、当時の賑わいが偲ばれるが、実はこの町並みは近年復元されたものである。
年々減少する観光客対策として、伊勢特有の建築様式である「切妻・妻入り」「入母屋・妻入り」を基本として、往時のまちなみ を再生しようとするまちづくり運動が、昭和54年にはじまり、その後、町並みや修景に関する要望書や請願書が市や議会に地元 住民から提出され、ついに平成元年9月、市独自条例「伊勢市まちなみ保全条例」が制定された。さらに「内宮おはらい町まちな み保全地区並びに同保全計画」が告示されると、無電柱化の工事や石畳による道路再舗装の工事が行なわれ、保全地区内に住む住 民に対しても、新・増築・改築等の修景を行なう場合は保全整備基準に基づき、伊勢の伝統的家屋形態を再現・維持することとさ れた。
そしてこの地を創業地とする、名物菓子「赤福」で有名な株式会社赤福が、平成5年7月、総投資額140億円を投じておかげ横 丁を開業した。敷地面積約2600坪の中に25棟の施設39店舗が営業し、この横丁のおかげで平成4年には35万人にまで落 ちこんだ観光客数が平成13年には288万人を数えるまでに回復した。当初は50代前後をターゲットにしたということだが、 実際には圧倒的に若いカップルや女性グループで占められている。それがまたこの落ち着いた町並みに賑やかさと、華やかさを添え る結果となり、多層的な町の魅力となっている。
馬野さんによれば、伊勢神宮の元々の神(渡来一族?)はこの地に居を構えたのだと言う。その地を祀ったのがこの伊雑(いぞう) 神社だそうだ。馬野さんは神道にも詳しい。これからも色々と教えてもらえそうである。ここは今回訪問はしていない。