Music: 離宮にて

第50代 桓武天皇
2000.March 京都市伏見区桃山町 柏原陵







		【第50代 桓武(かんむ)天皇】
		別名: 山部(やまのべ)親王、日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)  
		生没年:天平9年(737)〜 延暦25年(806)(70歳)  
		在位: 天応元年(781)〜 延暦25年(806)
		父:  光仁天皇  第1子
		母:  高野新笠(たかののにいがさ) 
		皇后:  藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)
		皇妃: 藤原吉子、多治比真宗、藤原小屎、橘御井子、紀乙魚、藤原仲子、
		    紀若子、坂上又子、坂上春子、藤原河子、河上真奴、百済教仁、藤原東子、橘常子、
		    藤原上子、百済貞香、藤原平子、中臣豊子、橘田村子、百済明信、百済教法、多治比豊継、百済永継
		皇子女:安殿親王(平城天皇)、朝原内親王、伊予親王、葛原親王、神野親王(嵯峨天皇)、大伴親王(淳和天皇)、
		    万多親王、明日香親王、坂本親王、佐味親王、太田親王、仲野親王、賀陽親王、大徳親王、葛井親王、
		    高志内親王、大宅内親王、高津内親王、布勢内親王、紀内親王、甘南備内親王、駿河内親王、滋野内親王、
		    安濃内親王、因幡内親王、安勅内親王、大井内親王、菅原内親王、賀楽内親王、春日内親王、善原内親王、
		    伊都内親王、池上内親王、岡成、安世、堪久  
		宮居:  平城京(ならのみや:奈良県奈良市)、長岡宮(ながおかのみや:京都府乙訓郡向日町)、
		    平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
		御陵: 柏原陵(かしわばらのみささぎ:京都府京都市伏見区桃山町)

 


		近鉄もしくは京阪電車の「丹波橋」駅からまっすぐ東へ15分ほど行ったところにこの天皇陵はある。静かな陵墓である。ノラ猫が
		2,3匹いた。




		一般に、桓武天皇御代のエピソードとして有名なのは「平安京遷都」である。1200年にわたる「京都」の繁栄を築いた人物として知ら
		れている。受験勉強で、「鳴くよ(794)うぐいす平安京」と覚えた人は多いだろう。少し歴史に詳しい人だと、「蝦夷征伐」「長岡京遷
		都」も加わる。そしてもっと歴史に詳しい人だと、どうして平城京から長岡京・平安京と二度も遷都を繰り返したのかについて、それ
		が「怨霊」のせいだと知っている。実際この天皇は、生涯を「怨霊」の祟りから逃れる事に費やしたような天皇だった。作家の井沢元
		彦が「逆説の日本史」の中で指摘するように、「怨霊」が古代における政務・政策の意思決定に深くかかわっている事が、最近ようや
		く認識されようとしている。

 

		哲学者の梅原猛はずいぶん前からその事を指摘していたが、多くの歴史学者達は「怨霊」を持ち出すことすらまともな学問の方法では
		ない、という態度を長い間とりつづけていた。しかしここに来て、度重なる遷都や追尊(死後の追任)についての説明が、「怨霊の祟
		りを怖れて」と考える方が一番合理的だと考えられるようになってきた。勿論、まだそんなものは科学的でないと頑迷に否定する人た
		ちもいるが、古代の為政者達が「怨霊」を怖れていた事、そしてそれによって多くの政策決定を行っていたことは、今日もはや動かし
		がたい事実である。

 


		
		光仁天皇の第一皇子で、母は百済系渡来人の高野新笠。井上皇后による呪詛事件のあおりで他戸親王が廃太子され、皇太子となった。
		病に伏した父光仁天皇の譲位を受けて即位した。最初弟の早良親王を皇太子とするが、藤原種継暗殺事件にからんだとして廃太子し、
		皇子安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。桓武天皇即位の裏には、藤原式家の後押しと策略があった。

		数次に渡って大規模な征夷軍を派遣し、東北地方に版図を拡大する。また、784年長岡京に遷都するが、長岡京の造営長官だった藤原
		種継が暗殺されるという事件が起き、桓武天皇弟の早良親王が関係ありとして捕縛される。早良親王は無実を訴え断食をし、護送中
		に死去する。その後、凶事が続いたため、早良親王のたたりだと噂され、不安にかられた桓武天皇は、和気清麻呂の進言もあって、
		794年、再び遷都を行った。平安京である。国名も「山背」から「山城」に変更され、この時から1200年におよぶ平安時代が始まる。
		平安京は唐の長安を手本にし、唐からの風水思想を元に都が設計されたとされている。

 

陵墓の裏手に見える城が伏見桃山城。京阪電車がアミューズメントパークの中に再建した。

 

		
		桓武天皇には少なくとも23人の妃と36人の皇子女がいたとされ、「続日本紀」40巻の編纂も行っている。遷都と言い、国史の
		編纂と言い、歴代天皇の中でもまれにみる強力なリーダーシップを発揮した天皇だったが、そんな天皇でも「怨霊」は怖かったので
		ある。

 

		父光仁(こうにん)天皇の后(きさき)井上内親王(桓武天皇には義母)は、30代を過ぎて光仁天皇に嫁ぐのだが、それまでは伊勢神宮
		の斎宮(いつきのみや)の姫であった。嫁いでからも加持祈祷をかかさなかった為、ある時それが天皇呪詛の祈祷であるとの疑いを掛け
		られ、我が子他戸王(おさべのみこ)とともに処刑された。今日この事件は、山部親王(桓武天皇)を推す藤原良継や藤原百川らの謀略
		と言うことになっているが、相次ぐ異変や天変地異を見て桓武天皇はこの二人の「怨霊」のせいと信じ、これを怖れるのである。

 

		また、桓武天皇の実子安殿(あて)親王の立太子の際、桓武の実弟早良(さわら)親王は讒言により謀反の疑いをかけられ憤死した。
		あらゆる変事が彼らの「怨霊」のせいであると世間でも取りざたされ、桓武天皇は遷都を重ねる。「怨霊」に悩まされたあげく、
		天皇は晩年、廃皇后とした井上内親王を復権させ、また早良親王にも「崇道天皇」の称号を送った。しかし、飢饉、大洪水等の変事は
		その後も続き、「怨霊」の影におびえながら2年後70才でその生涯を閉じた。








		天皇陛下、続日本紀に触れ「韓国とゆかり」 W杯に期待(2001.12.22 Asahi.com)
		天皇陛下は23日、68歳の誕生日を迎えた。これに先立って記者会見し、深刻化する経済情勢が国民生活へ与える影響を案じ、この1年
		を振り返った。日韓共催のサッカーワールドカップ(W杯)との関連で、人的、文化的な交流について語る中で「韓国とのゆかりを感じて
		います」と述べた。「残念な」歴史にも触れ、両国民の交流が良い方向へ向かうよう願う気持ちを示した。
		W杯の共同開催国、韓国に対する関心や思いを問われ、陛下は、同国からの移住者らが文化や技術を伝えたことに触れ「私自身としては、
		桓武(かんむ)天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆ
		かりを感じています」と語った。
		一方、「残念なことに韓国との交流はこのような交流ばかりではありませんでした」と語り、「このことを私どもは忘れてはならない」と
		述べた。さらに過去を「正確に知ることに努め、個人個人としての互いの立場を理解していくことが大切」とし、W杯を通し「両国民の間
		に理解と信頼感が深まることを願っております」と話した。
		会見の冒頭には経済情勢の深刻化に触れ、「失業率も高まり、国民の暮らしに大きな影響が生じていることを深く案じています」と話した。
		戦後の荒廃からの復興を例に、経済情勢など日本が抱える困難な問題を「国民が必ずや乗り越えていくものと期待しています」と語った。
		皇太子ご夫妻の赤ちゃんについては「健やかに育っていくことを願っています」と喜んだ。
		皇室の活動と公私の兼ね合いについては「私どもはやはり、私人として過ごすときにも、自分たちの立場を完全に離れることはできません」
		と述べた。(06:13) 

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			問3 世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年、日本と韓国の共同開催で行われます。開催が
			近づくにつれ、両国の市民レベルの交流も活発化していますが、歴史的、地理的にも近い国である韓国に対し、
			陛下が持っておられる関心、思いなどをお聞かせ下さい。 
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			答え 日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。
			韓国から移住した人々や招へいされた人々によって様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中
			には当時の移住者の子孫で代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術
			が日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思いま
			す。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。 
			私自身としては桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに韓
			国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時に日本に五経博士が代々日本に招へいされ
			るようになりました。また、武寧王の子、聖明王(せいめいおう)は日本に仏教を伝えたことで知られておりま
			す。しかし、残念なことに韓国との交流はこのような交流ばかりではありませんでした。このことを私どもは忘
			れてはならないと思います。 
			ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の
			人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場
			を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により、滞りなく行われ、このことを通
			して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。



伏見桃山城


桓武天皇陵には「陵墓参考地」がある。これは、「もしかしたらこっちがほんとの天皇陵かもしれない」という場所である。
古くからの言い伝えである場合が一番多い。桓武天皇陵もこっちではないかという場所が「大亀谷」にあり、現在の桓武天皇陵
の裏手にある伏見桃山城をグルッと廻って歩いたところにある。この陵から30分は歩く。伏見桃山城は名前の通り桃の花満開だった。

 

 

 

 



大亀谷陵墓参考地

 



参考地のすぐ脇に神社があって、まるでこの陵を守っているかのように建っている。この参考地だけでも相当広い。

 

   

 

		
		桓武天皇の五代末裔を名乗る平将門は、935年(承平5年)関東で乱を起こす。天慶の乱(てんぎょうのらん)。
		940年に平定されるまで「新皇」を名乗り暴れまくるが、時の政治に義憤を感じやむなく起(た)ったと言う事で、関東では今も人気
		が高い。

		「東院」記す木簡確認  長岡京 桓武天皇の離宮跡
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		京都新聞 200.5.3

「東院」記す木簡確認 長岡京 桓武天皇の離宮跡


桓武天皇の離宮「東院」跡から見つかった「東院内候所収帳」(左)、「勅旨所」の役所名を記す木簡

		
		長岡京跡で見つかった桓武天皇の離宮跡「東院」の調査を続けている向日市埋蔵文化財センターは二日、調査地の遺物の中から、
		「東院」の文字と、天皇の住まいである内裏の中にあった役所名「内候所(ないこうしょ)」とを併記した木簡を見つけた、と
		発表した。同センターでは「東院があらためて桓武天皇の住まいであったことが確認できた」としている。 
		京都市と向日市にまたがる長岡京跡で見つかった「東院」跡の現地発掘調査は三月末で終了しているが、同センターでは、調査
		地から見つかった多数の遺物を市文化財調査事務所に持ち帰り、整理作業を続けている。 
		持ち帰った遺物のうち、今月一日現在で、木簡計八百二十五点を調べた。この中に、表面に「東院内候所収帳」、裏面に「延暦
		十三年正月一日」と書かれた文字がはっきり読み取れる木簡(縦約十センチ、横約三センチ)や、天皇の指示伝達や財産管理な
		どを行った役所名「勅旨所(ちょくししょ)」(縦約七センチ、横約七センチ)を記した木簡などがあった。 
		「内候所」は、内裏の内部で役務にあたった役人の詰め所で、内裏の中に存在したとされている。また、「勅旨所」は現在の官
		房機関にあたる役所で、いずれも天皇に近侍した機関であることが文献などで明らかとなっている。 
		さらに「延暦十三年正月一日」の日付も、桓武天皇が平安京への遷都準備として東院に移った延暦十二(七九三)年正月二十一
		日以降であることから、「東院が遷都の準備を進める桓武天皇の住まいとして機能していたことが確実になった」(同センター)
		という。 

		鎌田元一・京都大教授(日本古代史)の話 
		「文献でしかその存在が分からなかった東院の位置を確定できただけでなく、東院の建物構造や規模も明らかになった。平城宮、
		平安宮などの内裏構造を知る上でも極めて貴重な資料だ。」



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