Music: 離宮にて

第12代 景行天皇

山辺道上陵 2002.3.23 奈良県天理市渋谷町






	<第12代景行(けいこう/けいぎょう)天皇> 
	異称     大帯日子淤斯呂和気天皇(古事記)/大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと:日本書紀)
	生没年    垂仁17年 〜 景行60年(106歳:日本書紀)(137歳:古事記)
	在位期間  垂仁99年(景行元年)〜 景行60年
	父:      垂仁天皇 第3子
	母:      日葉酢媛(ひばすひめ:丹波道主命の娘)
	皇后:    播磨稲日大郎姫(はりまのいなひのおおいらつめ)、八坂入媛(やさかいりひめ)
	皇妃:    水歯郎媛(にずはのいらつめ)、五十河媛(いかわひめ)、高田媛(たかたひめ)、
		 日向髪長大田根媛(ひむかのかみながおおたねひめ)、襲武媛(そのたけひめ)、御刀媛、五十琴姫命  
	皇子皇女: 櫛角別王、大碓皇子、日本武尊・・・母は播磨稲日大郎姫
		 稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦、忍之別皇子、稚倭根子皇子、大酢別皇子、渟熨斗皇女、渟名城皇女、
		 五百城入姫皇女、かこ依姫皇女、若木之入日之皇女、五百城入彦皇子、吉備兄彦皇子、
		 高城入姫皇女、弟姫皇女 ・・・以上母は八坂入媛
		 五百野皇女 ・・・母は水歯郎媛
		 神櫛皇子、稲背入彦皇子 ・・・母は五十河媛
		 武国凝別皇子 ・・・母は高田媛
		 日向襲津彦皇子 ・・・母は日向髪長大田根媛
	 国乳別皇子、国背別皇子、豊戸別皇子、豊国別皇子・・・母は御刀媛
		 真若王、彦人之大兄王 ・・・母は伊那野若郎女
		 銀王、五十功彦命、稚屋彦命、天帯根命、大曽色別命、石社別命、曽能目別命、
		 十市入彦命、襲小橋別命、色巳焦別命、能津彦命、熊忍津彦命、武茅別命、草木命、
		 手事別命、大我門別命、豊日別命、三川宿禰命、倭宿禰命、豊津彦命、大焦別命 ・・・以上母未詳
		 他
	皇 宮:  纒向日代宮(まきむくのひしろのみや:奈良県桜井市穴師)
		 志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや:滋賀県大津市坂本穴太町)  
	陵墓:   山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ:奈良県天理市渋谷町:渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳)




	JR桜井線の櫻井から2つ目の「巻向駅」で降りる。国道169号線の方へ歩き出すとすぐJA奈良の支所があって、その
	一画になんと柿本人麻呂の屋敷跡があった。「げーっ、ほんまかいな。」と思ったが、ちゃんと石碑まで建っていたので一
	応信用しとこう。でも解説も説明もないので「?」という感じはぬぐえなかった。

 


	垂仁天皇の第3皇子で、父帝に望むものを聞かれた際、兄の五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのに対し、皇位を望んでそれを
	許され即位したと言う。この天皇は皇妃も多いがその分皇子皇女も山と授かっている。古事記、日本書紀ともに80人と記
	す。その内、日本武尊(やまとたけるのみこと:古事記では倭建命)、稚足彦尊(わかたらしひこのみこと:成務天皇)、
	五百城入彦皇子の3名以外は全国の国司や郡司に封ぜられ、諸国の豪族の祖となるなど全国に勢力を広げていった。景行天
	皇27年10月、天皇は皇后播磨稲日大郎との間に生まれた日本武尊を熊襲征伐に派遣するが、このとき日本武尊は16歳
	だったと記されている。



	
	デカい。大きな森が169号線から見えている。まわりは工事現場やら田圃やら。国道(上左の隅)脇には飲食店が並んで
	いる。




	「日本書紀」には天皇自らも、大和朝廷に背いた日向の熊襲に対して出征したり、豊後国の土蜘蛛を討伐したという記事が
	みえる。各地に屯倉(みやけ)や田部(たべ)を置き、都を志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)に移した。実際全国
	展開にやっきになった天皇と見えて、「常陸風土記」など諸国の風土記に説話が残る。しかし、記紀の記録は殆どが日本武
	尊(やまとたけるのみこと)説話で占められており、景行天皇記は、まるで「日本武尊記」である。




	日本武尊については、この「天皇陵めぐり」の番外編で取り上げているので、そちらを参照いただきたいが、能煩野(のぼ
	の:三重県亀山市)で死に臨んで詠んだ歌は有名である。

	倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しうるわし

	しかしながら、この日本武尊の物語がそっくりそのまま歴史的事実とは考えにくい。景行天皇の時代に、大和政権の勢力が
	九州から関東にまで及び、日本統一の礎(いしずえ)が築かれた可能性は高いが、その統一事業はおそらく日本武尊を中心
	とした多くの勇者達が各地に赴いて大和朝廷の版図を拡大した事実があったのではないかと思われる。そしてそれらの伝承
	が集約されて、日本武尊伝説が成立したものだろう。あまりにも多い天皇の皇子女達も、おそらく、それら各地へ散ってい
	った者達のことで、派遣される際に「大王」の皇子女を名乗る事を許されていたのかもしれない。

 

 
	「古事記」によれば、能煩野で死んだ日本武尊はその地に葬られたが、その魂は一羽の白鳥となって舞いあがり、河内の古
	市(羽曳野市)に降り立った。そこでその地にも陵を作ったという。一方「日本書紀」には、能褒野から飛び立った白鳥は
	琴引原(ことひきはら:奈良県御所市)に降りたので、その地に陵を作ったとある。また一書に曰く、白鳥はそこをも飛び
	立って、いずこともなく大空へ消えていったとも言う。そういうわけで、現在「日本武尊陵」とされる陵墓は能褒野と古市
	と琴引原の三カ所にあり、三つの陵はいずれも陵墓参考地として宮内庁管轄となっている。三白鳥陵と呼ばれるこの三つの
	日本武尊陵は、その存在自体が、日本武尊伝説が複数の人物の伝承を合わせたものであることを物語っている。



 
	景行天皇は即位して11年後、纏向(まきむく)に日代宮(ひしろのみや)を造った。58年の2月、天皇は纒向の地を去
	り、近江の志賀高穴穂宮に移る。そして2年後に106歳で崩じたと日本書記は記す。しかしその遺体はまた纒向へ戻って
	くる。書紀に「倭国の山邊道上陵に葬りまつる」と記されている。この古墳は、文献上三輪王朝の最盛期に築かれたと考え
	られるが、被葬者を巡っては古来より論議が絶えない。



 
	渋谷町に在るためそう呼ばれる渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん:景行天皇陵)は、行燈山古墳(崇神天皇陵)、
	天神山古墳、櫛山古墳、黒塚古墳、アンド山古墳、上ノ山古墳、シウロ塚古墳、柳本大塚古墳等と共に「柳本古墳群」を形
	成し、造築時期は、古墳時代中期と考えられている黒塚古墳を除き、殆どが古墳時代の前期と推定されている。天理市と桜
	井市の境付近にある前方後円墳で、現在景行天皇陵という事になっているが、一説によるとこの天皇は存在を疑われている。
	実在しなかった可能性もあるのである。

	実在したとしても、崇神天皇の項で記述したように、この陵がほんとに景行陵かどうか実際には分からない。ここが崇神陵
	である可能性も残っている。土地の伝承では景行陵は古くは「王之塚」とよばれ、崇神天皇陵と伝えられて来た。一方、こ
	の陵のすぐ近くに崇神陵があり、行燈(あんどん)山(古墳)とよばれ、こっちが景行陵だと伝えられてきた経緯もある。

	蒲生君平も、御陵を実地に見聞した著書「山陵志」の中で、景行陵は北、崇神陵は南にあると記している。これが現在どう
	して入れ替わっているのか、そのいきさつは不明である。発掘すればあるいは、出土物年代の相対関係からはっきりする可
	能性はあるが、今のところそれは実現しそうにはない。
	いずれにしても、ここに古墳時代、強大な権力をもった大王がいた事は間違いなく、これだけ巨大な墳墓を築かせることが
	できたのは、大和政権による日本統一が既に形成されはじめていた証拠になるかもしれない。

 

 
	景行天皇陵から崇神天皇陵を目指して歩いていたときあった「上の山古墳」。古墳時代前期(3世紀〜4世紀)に作られた
	前方後円墳で、大和古墳群・柳本古墳群の一つである。(下はその全景)











 
	渋谷向山古墳は、前方部分を盆地の方に向けた全長300mのほぼ完全な前方後円墳であり、その大きさは他の古墳を圧倒
	している。後円部分の直径160m、前方部の幅170mの3段構築で、前方部分にやや大きく広がった形をしている。低
	い周濠が廻りを巡っており所々に古墳へわたる土手が築いてある。見瀬丸山箸墓古墳に次ぐ、大和古墳群第2位の大きさを
	持ち、全国の古墳の中でも、第7位にランクされる大きさである。

									奥は行燈山古墳(崇神天皇陵)

 

	全国の古墳の大きさ(上位35)

	順位 		古墳名 		全長(m) 		所在地			
	1 	大仙古墳(伝仁徳陵) 	486 		大阪府堺市大仙町
	2 	誉田御廟山(伝応神陵)	425 		大阪府羽曳野市誉田6丁目 
	3 	石津丘古墳(伝履中陵)	360 		大阪府堺市石津ヶ丘 
	4 	造山古墳			350 		岡山県岡山市新庄下 
	5 	河内大塚山古墳 		330 		大阪府羽曳野市南恵我之荘8丁目 
	6 	見瀬丸山古墳 		310 		奈良県橿原市見瀬町、五条野町 
	7 	渋谷向山古墳(伝景行陵) 	300 		奈良県天理市渋谷町 
	8 	ニサンザイ古墳		290 		大阪府堺市百舌鳥町西之町 
	9 	仲津山古墳(伝仲津姫陵) 	286 		大阪府藤井寺市沢田4丁目 
	9 	作山古墳 			286 		岡山県総社市三須 
	11 	箸墓古墳			278 		奈良県桜井市箸中 
	12 	五社神古墳(伝神功陵) 	275		奈良県奈良市山陵町 
	13	宇和奈辺古墳		255 		奈良県奈良市法華寺町字宇和那辺 
	14 	市庭古墳(伝平城陵) 		250 		奈良県奈良市佐紀町 
	15 	メスリ山古墳		250 		奈良県桜井市大字高田 
	16 	岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)	242 		大阪府藤井寺市藤井寺4丁目 
	16 	行燈山古墳(伝崇神陵) 	242 		奈良県天理市柳本行燈 
	18 	室大墓(室宮山)		238 		奈良県御所市室宮山 
	19 	市野山古墳(伝允恭陵) 	230 		大阪府藤井寺市国府1丁 
	20 	宝来山古墳(伝垂仁陵) 	227 		奈良県奈良市宝来町 
	21 	大田茶臼山古墳(伝継体陵) 	226 		大阪府茨木市太田3丁目 
	22 	古市墓山古墳 		225 		大阪府羽曳野市白鳥3丁目 
	23 	ひしあげ古墳(伝磐之媛陵) 	219 		奈良県奈良市佐紀町ヒシアゲ 
	23 	西殿塚古墳(伝手白皇女) 	219 		奈良県天理市中山町西殿塚 
	25 	佐紀石塚山古墳(伝成務陵)	218 		奈良県奈良市山陵町御陵前 
	26 	河合大塚山古墳		215 		奈良県北葛城郡河合町西穴闇字大塚 
	27 	築山古墳 			210 		奈良県大和高田市築山字城山 
	27 	西陵古墳			210 		大阪府泉南郡岬町淡輪 
	27 	太田天神山古墳		210 		群馬県太田市内ヶ島 
	30 	津堂城山古墳 		208 		大阪府藤井寺市津堂 
	31 	桜井茶臼山古墳 		207 		奈良県桜井市外山 
	31 	陵山古墳(伝日葉酢媛陵) 	207 		奈良県奈良市佐紀町 
	33 	小奈辺古墳 		204 		奈良県奈良市法華寺町北 
	33 	巣山古墳 			204 		奈良県北葛城郡広陵町三吉 
	35 	茶臼山古墳		200 		大阪府大阪市天王寺区茶臼山町 
	35 	摩湯山古墳		200 		大阪府岸和田市久米田摩湯 
	35 	神明山古墳 		200 		京都府竹野郡丹後町字宮 
	   		    		     		   			

 
	【大帶日子淤斯呂和氣天皇】(景行天皇)  (古事記)

	大帶日子淤斯呂和氣天皇、坐纏向之日代宮、治天下也。
	此天皇、娶、吉備臣等之祖、若建吉備津日子之女、名針間之伊那毘能大郎女、
	生御子、櫛角別王。次、大碓命。次、小碓命、亦名倭男具那命【具那二字以音】次、倭根子命。次、神櫛王。【五柱】
	又娶、八尺入日子命之女、八坂之入日賣命、生御子、若帶日子命。次、五百木之入日子命。次、押別命。次、五百木之入
	日賣命。又妾之子、豐戸別王。次、沼代郎女。又妾之子、次、名木郎女。次、香余理比賣命。次、若木之入日子王。次、
	吉備之兄日子王。次、高木比賣命。次、弟比賣命。	又娶、日向之美波迦斯毘賣、生御子、豐國別王。
	又娶、伊那毘能大郎女之弟、伊那毘能若郎女、【自伊下四字以音】生御子、眞若王。次、日子人之大兄王。
	又娶、倭建命之曾孫、名須賣伊呂大中日子王【自須至呂四字以音】之女、訶具漏比賣、生御子、大枝王。凡此大帶日子天
	皇之御子等、所録廿一王、不入記五十九王、并八十王之中、若帶日子命與、倭建命、亦、五百木之入日子命、此三王負太
	子之名。自其餘七十七王者、悉別賜國國之國造、亦和氣、及稻置、縣主也。故、若帶日子命者、治天下也。
	小碓命者、平東西之荒神、及不伏人等也。
	次、櫛角別王者【茨田下連等之祖】
	次、大碓命者【守君、大田君、嶋田君之祖】
	次、神櫛王者【木國之酒部阿比古、宇陀酒部之祖】
	次、豐國別王者【日向國造之祖】

	於是天皇、聞看定三野國造之祖、大根王之女、名兄比賣、弟比賣二孃子、其容姿麗美而、遣其御子大碓命以喚上。故、其
	所遣大碓
	命、勿召上而、即己自婚其孃子、更求他女人、詐名其孃女而貢上。於是天皇、知其他女、恒令經長眼、亦勿婚而惚也。故、
	其大碓命娶兄比賣生子、押黒之兄日子王。【此者三野之宇泥須和氣之祖】亦娶弟比賣、生子、押黒弟日子王。【此者牟宜
	都君等之祖】此之御世、定田部、又定東之淡水門、又定膳之大伴部、又定倭屯家。又作坂手池、即竹植其堤也。
	天皇詔小碓命、「何汝兄、於朝夕之大御食不參出來。專汝泥疑教覺。」【泥疑二字以音。下效此】如此詔以後、至于五日、
	猶不參出。爾天皇問賜小碓命、「何汝兄久不參出。若有未誨乎。」答白、「既爲泥疑也。」又詔、「如何泥疑之。」答白、
	「朝曙入厠之時、持捕[才益]批而、引闕其枝、裹薦投棄。」
	於是天皇、惶其御子之建荒之情而詔之、「西方有熊曾建二人。是不伏无禮人等。故、取其人等。」而遣。當此之時、其御
	髮結額也。爾小碓命、給其姨倭比賣命之御衣御裳、以劔納于御懷而幸行。故、到于熊曾建之家見者、於其家邊軍圍三重、
	作室以居。於是言動爲御室樂、設備食物。故、遊行其傍、待其樂日。爾臨其樂日、如童女之髮、梳垂其結御髮、服其姨之
	御衣御裳、既成童女之姿、交立女人之中、入坐其室内。爾熊曾建兄弟二人、見感其孃子、坐於己中而盛樂。故、臨其酣時、
	自懷出劔、取熊曾之衣衿、以劔自其胸刺通之時、其弟建、見畏逃出。乃追至其室之椅本、取其背皮、劔自尻刺通。爾其熊
	曾建白言、「莫動其刀。僕有白言。」爾暫許押伏。於是白言、「汝命者誰。」爾詔、「吾者坐纏向之日代宮、所知大八嶋
	國、大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子、名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人、不伏無禮聞看而、取殺意禮詔而遣。」爾其熊
	曾建白、「信然也。於西方除吾二人、無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以吾獻御名。自今以後、應
	稱倭建御子。是事白訖、即如熟[冠艸脚瓜]振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。然而還上之時、山神、河神、及穴
	戸神、皆言向和而參上。
	即入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、即結友。故、竊以赤梼、作詐刀、爲御佩、共沐肥河。爾倭建命、自河先上、取佩出雲
	建之解置横刀而詔「易刀。」故、後出雲建自河上而、佩倭建命之詐刀。於是倭建命、誂云「伊奢合刀。」爾各拔其刀之時、
	出雲建不得拔詐。即倭建命、拔其刀而、打殺出雲建。爾御歌曰、

		夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知
		都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮
	
	故、如此撥治、參上覆奏。
	爾天皇、亦頻詔倭建命、「言向和平東方十二道之荒夫琉神、及摩都樓波奴人等」而、副吉備臣等之祖、名御[金且]友耳建
	日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛【比比羅三字以音】故、受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、即白其姨倭比
	賣命者、「天皇既所以思吾死乎、何撃遣西方之惡人等而、返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡
	人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劍【那藝二字以音】亦賜御嚢而、詔若有急事、解茲
	嚢口。荒神、及不伏人等。故、爾到相武國之時、其國造詐白、「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是
	看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故、知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給嚢口而見者、火打有其嚢。於是先以
	其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出皆切滅其國造等、即著火燒。故、於今謂燒遣也。
	自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后、名弟橘比賣命白之、「妾易御子而入海中。御子者、所遣
	之政遂應覆奏。」將入海時、以菅疊八重、皮疊八重、kinu [扁糸旁右施]疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是其暴浪自伏、
	御船得進。爾其后歌曰、

		佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇
		毛由流肥能 本那迦邇多知弖
		斗比斯岐美波母

	故、七日之後、其后御櫛依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等而、
	還上幸時、到足柄之坂本、於食御粮處、其坂神化白鹿而來立。爾即以其咋
	遺之蒜片端、待打者、中其目乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云「阿豆麻波夜。」【自阿下五字以音】故、號其國謂阿豆
	麻也。即自其國越出甲斐、坐酒折宮之時、歌曰、
	
		伊久用加泥都流

		爾其御火燒之老人、續御歌以歌曰、

		迦賀那倍弖 用邇波許許能用
		比邇波登袁加袁

	是以譽其老人、即給東國造也。
	自其國越科野國、乃言向科野之坂神而、還來尾張國、入坐先日所期美夜受比賣之許。於是獻大御食之時、其美夜受比賣、
	捧大御酒盞以獻。爾美夜受比賣、其於意須比之襴【意須比三字以音】著月經。故、見其月經、御歌曰、

		比佐迦多能 阿米能迦具夜麻
		斗迦麻邇 佐和多流久毘
		比波煩曾 多和夜賀比那袁
		麻迦牟登波 阿禮波須禮杼
		佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼
		那賀祁勢流 意須比能須蘇爾
		都紀多知邇祁理

	爾美夜受比賣、答御歌曰、

		多迦比迦流 比能美古
		夜須美斯志 和賀意富岐美
		阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆
		阿良多麻能 都紀波岐閇由久
		宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾
		和賀祁勢流 意須比能須蘇爾
		都紀多多那牟余

	故爾御合而、以其御刀之草那藝劔、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。
	於是詔、「茲山神者、徒手直取」而、騰其山之時、白猪逢于山邊。其大如牛。爾爲言擧而詔、「是化白猪者、其神之使
	者。雖今不殺、還時將殺」而、騰坐。於是零大氷雨、打惑倭建命【此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身、因言擧
	見惑也。】故、還下坐之、到玉倉部之清泉以息坐之時、御心稍寤。故、號其清泉、謂居寤清泉也。
	自其處發、到當藝野上之時、詔者、「吾心恆念自虚翔行。然今吾足不得歩。成當藝斯玖。【自當下三字以音】故、號其
	地謂當藝也。自其地差少幸行、因甚疲衝御杖稍歩。故、號其地謂杖衝坂也。到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其
	地御刀、不失猶有。爾御歌曰、

		袁波理邇 多陀邇牟迦幣流
		袁都能佐岐那流
		比登都麻都 阿勢袁
		比登都麻都 比登邇阿理勢婆
		多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁
		比登都麻都 阿勢袁

	自其地幸、到三重村之時、亦詔之、「吾足如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以
	歌曰、

		夜麻登波 久爾能麻本呂婆
		多多那豆久 阿袁加岐
		夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
	又歌曰、
		伊能知能 麻多祁牟比登波
		多多美許母 幣具理能夜麻能
		久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢曾能古

	此歌者、思國歌也。又歌曰、
		
		波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用
		久毛韋多知久母

	此者片歌也。此者御病甚急,爾御歌曰、

		袁登賣能 登許能辨爾
		和賀淤岐斯 都流岐能多知
		曾能多知波夜

	歌竟即崩。爾貢上驛使。
	於是坐倭后等及御子等、諸下到而、作御陵、即匍匐廻其地之那豆岐田【自那下三字以音】而、哭爲歌曰、

		那豆岐能多能
		伊那賀良邇 伊那賀良爾
		波比母登富呂布 登許呂豆良
		
	於是化八尋白智鳥、翔天而向濱飛行。【智字以音】爾其后及御子等、於其小竹之苅杙、雖足[足非]破、忘其痛以哭追、
	此時歌曰、

		阿佐士怒波良 許斯那豆牟
		蘇良波由賀受 阿斯用由久那

	又入其海鹽而、那豆美【此三字以音】行時歌曰、
		
		宇美賀由氣婆 許斯那豆牟
		意富迦波良能 宇惠具佐
		宇美賀波 伊佐用布

	又飛居其磯之時、歌曰、

		波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布

	是四歌者、皆歌其御葬也。故、至今其歌者、歌天皇之大御葬也。故、自其國飛翔行、留河内國之志幾。故、於其地作
	御陵鎭坐也。即號其御陵、謂白鳥御陵也。然亦自其地更翔天以飛行。凡此倭建命、平國廻行之時、久米直之祖、名七
	拳脛、恆爲膳夫以從仕奉也。此倭建命、娶、伊玖米天皇之女、布多遲能伊理毘賣命【自布下八字以音】生御子、帶中
	津日子命【一柱】。又娶、其入海弟橘比賣命、生御子、若建王【一柱】。
	又娶、近淡海之安國造之祖、意富多牟和氣之女、布多遲比賣、生御子、稻依別王【一柱】。
	又娶、吉備臣建日子之妹、大吉備建比賣、生御子、建貝兒王【一柱】。
	又娶、山代之玖玖麻毛理比賣。生御子、足鏡別王【一柱】
	又一妻之子、息長田別王。凡是倭建命之御子等并六柱。
	故、帶中津日子命者。治天下也。
	次、稻依別王者【犬上君、建部君等之祖】
	次、建貝兒王者【讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別等之祖】
	足鏡別王者【鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也】
	次、息長田別王之子、杙俣長日子王。
	此王之子、飯野眞黒比賣命。次、息長眞若中比賣。次、弟比賣【三柱】。
	故、上云若建王、娶飯野眞黒比賣、生子、須賣伊呂大中日子王【自須至呂以音】
	此王、娶淡海之柴野入杵之女、柴野比賣 生子、迦具漏比賣命。
	故、大帶日子天皇、娶此迦具漏比賣命、生子、大江王【一柱】。
	此王、娶庶妹銀王、生子、大名方王。次大中比賣命【二柱】。
	故、此之大中比賣命者、香坂王、忍熊王之御祖也。

	此大帶日子天皇之御年、壹佰參拾漆歳。御陵在山邊之道上也。



 
	【大帶日子淤斯呂和氣(おおたらしひこおしろわけ)の天皇】(景行天皇)  

	大帶日子淤斯呂和氣の天皇、纏向の日代の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇、吉備の臣等の祖、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女、名は針間(はりま)の伊那毘能大郎女
	(いなびのおおいらつめ)を娶りて生みし御子は、櫛角別(くしつのわけ)の王。次に大碓(おおうす)の命。次
	に小碓(おうす)の命、またの名は倭(やまと)男具那(おぐな)の命【具那の二字は音を以ちてす】。次に倭根
	子の命。次に~櫛(かむくし)の王【五柱】。
	また八尺入日子の命の女、八坂の入日賣の命を娶りて生みし御子は、若帶日子の命。 次に五百木(いほき)の入
	日子の命。 次に押別の命。次に五百木の入日賣の命。また妾の子、豐戸別(とよとわけ)の王。次に沼代郎女
	(ぬのしろのいらつめ)。また妾の子、沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)。次に香余理比賣(かぐよりひめ)の命。
	次に若木の入日子の王。次に吉備の兄日子の王。次に高木比賣の命。次に弟比賣の命。また日向の美波迦斯(みは
	かし)毘賣を娶りて生みし御子は、豐國別の王。また伊那毘能(いなびの)大郎女の弟、伊那毘能若郎女【伊より
	下の四字は音を以ちてす】を娶りて生みし御子は、眞若の王。次に日子人の大兄(おおえ)の王。また倭建(やま
	とたける)の命の曾孫、名は須賣伊呂(すめいろ)大中日子の王【須より呂までの四字は音を以ちてす】の女、訶
	具漏(かぐろ)比賣を娶りて生みし御子は、大枝(おおえ)の王。凡そ此の大帶日子の天皇の御子等、録せるは廿
	一王。入れ記さざるは五十九王。并せて八十王の中に、若帶日子の命と倭建の命、また五百木の入日子の命、此の
	三王は太子(ひつぎのみこ)の名を負い、其の餘(ほか)の七十七王は悉に國國の國造、また和氣、及び稻置、縣
	主に別け賜いき。故、若帶日子の命は、天の下治しめしき。小碓の命は東西の荒ぶる~、及び伏(まつろ)わぬ人
	等を平げき。次に櫛角別の王は【茨田の下の連等の祖】。次に大碓の命は【守の君、大田の君、嶋田の君の祖】。
	次に~櫛の王は【木の國の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖】次に豐國別の王は【日向の國造の祖】。

	是に天皇、三野の國造の祖、~大根の王の女、名は兄比賣・弟比賣の二りの孃子(おとめ)、其の容姿(かたち)
	麗美(うるわ)しと聞こし看し定めて、其の御子大碓の命を遣わして以ちて喚上げき。故、其の遣わされし大碓の
	命、召上げること勿(なく)して、即ち己れ自ら其の孃子と婚いて、更に他(あたし)し女人(おみな)を求めて、
	詐りて其の孃女と名づけて貢上りき。 是に天皇、其の他し女と知りて恆に長き暇を經しめ、また婚わずて惚(な
	やま)しめき。故、其の大碓の命、兄比賣を娶りて生みし子は押K(おしくろ)の兄日子の王【此は三野の宇泥須
	和氣(うねすわけ)の祖】。また弟比賣を娶りて生みし子は押K弟日子の王【此は牟宜都(むげつ)の君等の祖】。
	此の御世に田部(たべ)を定め、また東の淡(あわ)の水門を定め、また膳(かしわて)の大伴部を定め、また倭
	の屯倉を定め、また坂手の池を作りて、即ち竹を其の堤に植えき。
	天皇、小碓の命に詔らさく、「何しかも汝が兄は朝夕の大御食(おおみけ)に參い出で來ざる。專ら汝、泥疑(ね
	ぎ)教え覺(さと)せ【泥疑の二字は音を以ちてす。下、此に效え】」。如此(かく)詔りて以後(のち)、五日
	に至るまで猶參い出でず。爾くして天皇小碓の命に問い賜わく、「何しかも汝が兄は久しく參い出でざる。若し未
	だ誨(おし)えず有りや」。答えて白さく、
	「既に泥疑爲つ」。また詔らさく、「如何にか泥疑つる」。答えて白さく、「朝曙(あさけ)に厠に入りし時に、
	持ち捕り批(ひだ)きて、其の枝に引き闕きて薦に裹(つつ)みて投げ棄てき」。是に天皇、其の御子の建けく荒
	き情(こころ)を惶(おそ)れて詔りて、「西の方に熊曾建(くまそたける)二人有り。是、伏わず禮(いや)无
	き人等ぞ。故、其の人等を取れ」と遣しき。
	此の時に當りて其の御髮(みかみ)を額に結いき。爾くして小碓の命、其の姨(おば)倭比賣(やまとひめ)の命
	の御衣(みけし)・御裳(みも)を給わり、以ちて劍を御懷(みふつくろ)にて納れて幸行しき。故、熊曾建の家
	に到りて見れば、其の家の邊に軍三重に圍み室を作り以ちて居りき。是に御室(みむろ)樂(あそび)爲んと言い
	動みて食物(くらいもの)を設け備えき。 故、其の傍を遊び行きて其の樂の日を待ちき。
	爾くして其の樂の日に臨みて、童女の髮の如く其の結わせる御髮を梳(けず)り垂れ、其の姨の御衣・御裳を服
	(き)て、既に童女の姿に成りて、女人の中に交り立ちて、其の室の内に入り坐しき。爾くして熊曾建の兄弟二人、
	其の孃子を見感でて、己が中に坐せて盛りに樂しつ。故、其の酣(たけなわ)なる時に臨みて、懷(ふつくろ)よ
	り劍を出し、熊曾の衣の衿(くび)を取りて、劍を以ちて其の胸より刺し通しし時に、其の弟建、見畏みて逃げ出
	でき。乃ち其の室の椅(はし)の本に追い至りて、其の背皮を取りて、劍を尻より刺し通しき。爾くして其の熊曾
	建、白して言いしく、「其の刀を動かすこと莫かれ。僕、白し言うこと有り」。
	爾くして暫く許して押し伏せき。是に白して言いしく、「汝が命は誰ぞ」。爾くして詔らししく、「吾は纏向の日
	代宮に坐しまして大八嶋國知らしめす大帶日子淤斯呂和氣の天皇の御子、名は倭男具那の王也。意禮(おれ)熊曾
	建二人、伏(まつろ)わず禮(いや)無しと聞こし看して、意禮(おれ)取り殺せと詔りて遣しき」。爾くして其
	の熊曾建白ししく、「信(まこと)に然(しか)あらん。西の方に吾二人を除(の)きて建く強き人無し。然れど
	も大倭國に吾二人に益て建き男は坐し祁理(けり)。 是を以ちて吾が御名を獻らん。今より以後はまさに倭建の
	御子と稱うべし」。是の事を白し訖るに、即ち熟瓜(ほそぢ)の如く振り析(さ)きて殺しき。故、其の時より御
	名を稱えて倭建の命と謂う。然くして還り上る時に、山の~・河の~・及び穴戸の~を皆言向け和して參い上りき。
	即ち出雲の國に入り坐しき。其の出雲建(いずもたける)を殺さんと欲いて、到りて即ち友を結びき。故、竊(ひ
	そか)に赤梼(いちい)を以ちて詐りの刀(たち)を作り御佩(みはかし)と爲し、共に肥の河に沐しき。爾くし
	て倭建の命、河より先ず上り、出雲建の解き置ける横刀を取り佩きて、詔らししく、「刀易(たちかえ)爲(せ)
	ん」故、後に出雲建、河より上りて倭建の命の詐りの刀を佩きき。是に倭建の命、誂(あとら)えて云いしく、
	「伊奢(いざ)刀(たち)合わせん」。爾くして各(おのおの)其の刀を拔きし時に、出雲建、詐りの刀を拔くを
	得ず。 即ち倭建の命、其の刀を拔きて、出雲建を打ち殺しき。 爾くして御歌に曰く、

		夜(や)都(つ)米(め)佐(さ)須(す)   
		伊(い)豆(づ)毛(も)多(た)祁(け)流(る)賀(が)
		波(は)祁(け)流(る)多(た)知(ち)
		都(つ)豆(づ)良(ら)佐(さ)波(は)麻(ま)岐(き)
		佐(さ)味(み)那(な)志(し)爾(に)阿(あ)波(は)禮(れ)

		やつめさす   
		出雲建が
		佩ける大刀
		葛多巻き
		さ身無しにあはれ 
		故、如此(かく)撥い治めて參い上りて覆(かえりこと)奏しき。

	爾くして天皇また頻(しき)りに倭建の命に、「東の方の十二の道の荒夫琉(あらぶる)~、及び摩都樓波奴(ま
	つろはぬ)人等を言向(ことむ)け和(やわ)し平げよ」と詔らして、吉備の臣等の祖、名は御友耳建日子(みす
	きともみみたけひこ)を副(そえ)て遣す時に比比羅(ひひら)木の八尋矛を給いき【比比羅の三字は音を以ちて
	す】。故、命(みことのり)を受けて罷り行く時に、伊勢の大御~の宮に參い入りて~の朝廷を拜みて、即ち其の
	姨(おば)の倭比賣(やまとひめ)の命に白ししく、「天皇、既に吾を死ねと思う所以(ゆえ)や、何しかも西方
	の惡しき人等を撃ちに遣わして返り參い上り來し間に未だ幾時をも經ぬに、軍衆(いくさとも)をも賜わずて、今、
	更に東の方の十二の道の惡しき人等を平げに遣しつ。 此に因りて思惟(おも)うに、猶吾を既に死ねと思おし看
	(め)すぞ」と、患え泣きて罷りし時に、倭比賣の命、草那藝(くさなぎ)の劍を【那藝の二字は音を以ちてす】
	賜い、また御嚢(みふくろ)を賜いて詔らさく、「若し急(にわ)かなる事有らば、茲(こ)の嚢の口を解きたま
	え」。
	故、尾張の國に到りて尾張の國造の祖、美夜受比賣(みやずひめ)の家に入り坐しき。乃ち將に婚わんと思うと雖
	ども、また還り上りし時に將に婚わんと思いて、期(ちぎ)り定めて東の國に幸(いでま)して、悉く山河の荒ぶ
	る~、及び伏(まつろ)わぬ人等を言向(ことむ)け和平(やわ)しき。 故、爾くして相武(さがむ)の國に到
	りし時に其の國造、詐りて白ししく、「此の野中に大沼有り。是の沼の中に住みし~は、甚道速振(いとちはやぶ
	る)~也」。是に其の~を看に行きて其の野に入り坐しき。
	爾くして其の國造、火を其の野に著けき。故、欺かれぬと知りて、其の姨、倭比賣の命の給いし嚢の口を解き開け
	て見れば、火打、其の裏(うち)に有り。是に先ず其の御刀を以ちて草苅り撥(はら)い、其の火打を以ちて火を
	打ち出し、向い火著けて燒き退けて、還り出でて其の國造等を皆な切り滅(ほろぼ)し、即ち火を著けて燒きき。
	故、其の地を今に燒遣(やきつ)と謂也。
	其より入り幸(いでま)して走水の海を渡りし時に、其の渡の~、浪を興し、船を廻(もとお)して進み渡るを得
	ず。爾くして其の后、名は弟橘比賣(おとたちばなひめ)の命白ししく、「妾、御子に易(かわ)りて海に入らん。
	御子は遣わされし政(まつりこと)を遂げ覆(かえりこと)奏(もう)すべし」。將に海に入らんとする時に、菅
	疊(すがたたみ)八重・皮疊八重・疊(きぬたたみ)八重を以ちて波の上に敷きて其の上に下り坐しき。是に其の
	暴浪(あらなみ)自ら伏(な)ぎて御船進むを得たり。爾くして其の后、歌いて曰く、


		佐(さ)泥(ね)佐(さ)斯(し)
		佐(さ)賀(が)牟(む)能(の)袁(お)怒(の)邇(に) 
		毛(も)由(ゆ)流(る)肥(ひ)能(の)
		本(ほ)那(な)迦(か)邇(に)多(た)知(ち)弖(て)
		斗(と)比(ひ)斯(し)岐(き)美(み)波(は)母(も)

		さねさし
		相模の小野に
		燃ゆる火の
		火中に立ちて 
		問ひし君はも  
 
	故、七日の後に其の后の御櫛、海邊に依りき。 乃ち其の櫛を取り御陵を作りて治め置く也。
	其より入り幸まして、悉く荒夫琉(あらぶる)蝦夷(えみし)等を言向け、また山河の荒ぶる~等を平和して還り
	上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて御粮(みかりて)を食(は)む處に、其の坂の~、白き鹿と化りて來て立ち
	き。爾くして即ち其の咋い遺せる蒜(ひる)の片端を以ちて待ち打てば、其の目に中りて乃ち打ち殺しき。故、其
	の坂に登り立ちて三たび歎きて詔りて云いしく、阿豆麻波夜(あづまはや)=吾妻はや【阿より下の五字は音を以
	ちてす】」。故、其の國を號けて阿豆麻(あづま)と謂う。即ち其の國より甲斐に越え出でて、酒折の宮に坐しま
	しし時に歌いて曰く、

 		邇(に)比(ひ)婆(ば)理(り)
		都(つ)久(く)波(ば)袁(を)須(す)疑(ぎ)弖(て)
		伊(い)久(く)用(よ)加(か)泥(ね)都(つ)流(る) 
		新治
 		筑波を過ぎて
 		幾夜か寝つる 
 		爾くして、其の御火燒(みひたき)の老人(おきな)御歌に續きて以って歌いて曰く、
		迦(か)賀(が)那(な)倍(べ)弖(て)
		用(よ)邇(に)波(は)許(こ)許(こ)能(の)用(よ)
		比(ひ)邇(に)波(は)登(と)袁(お)加(か)袁(を) 
		日々並べて
		夜には九夜
		日には十日を 
 
	是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の國造を給う也。
	其の國より科野(しなの)の國に越え、乃ち科野の坂の~を言向けて、尾張の國に還り來て、先の日に期りし美夜
	受比賣(みやずひめ)の許に入り坐しき。是に大御食(おおみけ)を獻りし時に、其の美夜受比賣、大御酒盞(お
	おみさかづき)を捧げて以ちて獻りき。爾くして美夜受比賣、其の意須比(おすひ)の襴(すそ)【意須比の三字
	は音を以ちてす】に月經(さわり)著きたり。故、其の月經を見て御歌に曰く、

		比(ひ)佐(さ)迦(か)多(た)能(の)
		阿(あ)米(め)能(の)迦(か)具(ぐ)夜(や)麻(ま)
		斗(と)迦(か)麻(ま)邇(に)
		佐(さ)和(わ)多(た)流(る)久(く)毘(ひ)
		比(ひ)波(は)煩(ぼ)曾(そ)
		多(た)和(わ)夜(や)賀(が)比(ひ)那(な)袁(を)
		麻(ま)迦(か)牟(む)登(と)波(は)
		阿(あ)禮(れ)波(は)須(す)禮(れ)杼(ど)
		佐(さ)泥(ね)牟(む)登(と)波(は)
		阿(あ)禮(れ)波(は)意(お)母(も)閇(へ)杼(ど) 
		那(な)賀(が)祁(け)勢(せ)流(る)
		意(お)須(す)比(ひ)能(の)須(す)蘇(そ)爾(に)
		都(つ)紀(き)多(た)知(ち)邇(に)祁(け)理(り)

		ひさかたの
		天の香具山
		とかまに
		さ渡る鵠(くひ)
		弱細(ひはぼそ)
		手弱腕(たわやがいな)を 
		枕(ま)かむとは
		吾はすれど
		さ寝むとは
		吾は思へど
		汝が着(け)せる
		意須比の襴(すそ)に
		月たちにけり

	爾くして美夜受比賣、答えて御歌に曰く、

		多(た)迦(か)比(ひ)迦(か)流(る)
		比(ひ)能(の)美(み)古(こ)
		夜(や)須(す)美(み)斯(し)志(し)
		和(わ)賀(が)意(お)富(ほ)岐(き)美(み)
		阿(あ)良(ら)多(た)麻(ま)能(の)
		登(と)斯(し)賀(が)岐(き)布(ふ)禮(れ)婆(ば)
		阿(あ)良(ら)多(た)麻(ま)能(の)
		都(つ)紀(き)波(は)岐(き)閇(へ)由(ゆ)久(く)
		宇(う)倍(べ)那(な)
		宇(う)倍(べ)那(な)
		宇(う)倍(べ)那(な) 
		岐(き)美(み)麻(ま)知(ち)賀(が)多(た)爾(に)
		和(わ)賀(が)祁(け)勢(せ)流(る)
		意(お)須(す)比(ひ)能(の)須(す)蘇(そ)爾(に) 
		都(つ)紀(き)多(た)多(た)那(な)牟(む)余(よ)

		高光る
 		日の御子
 		やすみしし
 		我が大君
		あらたまの
 		年が來經れば
 		あらたまの
 		月は來經行く
 		うべな
 		うべな
 		うべな
 		君待ち難に
 		我が着せる
 		意須比の襴(すそ)に
 		月たたなむよ 

	故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)の草那藝(くさなぎ)の劍(たち)を以ちて、其の美夜受比賣の許
	に置きて、伊服岐能山(いふきのやま)の~を取りに幸行しき。
	是に詔らさく、「茲(こ)の山の~は、徒手(むなで)に直(ただ)に取らん」。其の山に騰(のぼ)りし時に、
	白き猪(い)、山の邊に逢いき。其の大きさ牛の如し。爾くして言擧(ことあげ)爲して詔らさく、「是の白き猪
	と化れるは、其の~の使ぞ。今殺さずと雖ども、還らん時に將に殺さん」と、騰り坐しき。是に大氷雨(おおひさ
	め)を零(ふら)して、倭建の命を【此の白き猪に化れるは、其の~の使には非ず、其の~の正身(ただみ)に當
	りしを言擧(ことあげ)に因りて惑わさるる也】打ち惑わしき。故、還り下り坐して、玉倉部の清泉に到り以って
	息(いこ)い坐しし時に、御心稍(ようや)く寤(さ)めき。故、其の清泉を號(なづ)けて居寤(いさめ)の清
	泉と謂う也。其の處より發たして、當藝野(たぎの)の上に到りし時に詔らさく、「吾が心、恆(つね)に虚(そ
	ら)より翔(か)けり行かんと念(おも)う。然れども、今、吾が足は歩むを得ずして、當藝當藝斯玖(たぎたぎ
	しく)【當より下の六字は音を以ちてす】成りぬ」。故、其の地を號けて當藝(たぎ)と謂う也。其の地より差
	(やや)少し幸行して、甚だ疲れたるに因りて御杖を衝きて稍(ようや)く歩みき。故、其の地を號けて杖衝坂
	(つえつきざか)と謂う也。尾津(おつ)の前(さき)の一つ松の許に到り坐すに、先に御食(みおし)せし時に
	其の地に忘れし御刀、失せずして猶有り。爾くして御歌に曰く、

		袁(お)波(は)理(り)邇(に)
		多(た)陀(だ)邇(に)牟(む)迦(か)幣(へ)流(る)
		袁(お)都(つ)能(の)佐(さ)岐(き)那(な)流(る)
		比(ひ)登(と)都(つ)麻(ま)都(つ)
		阿(あ)勢(せ)袁(を)
		比(ひ)登(と)都(つ)麻(ま)都(つ)
		比(ひ)登(と)邇(に)阿(あ)理(り)勢(せ)婆(ば)
		多(た)知(ち)波(は)氣(け)麻(ま)斯(し)袁(を)
		岐(き)奴(ぬ)岐(き)勢(せ)麻(ま)斯(し)袁(を)
		比(ひ)登(と)都(つ)麻(ま)都(つ)
		阿(あ)勢(せ)袁(を)

		尾張に
		直に向かへる
		尾津の前なる
		一つ松
		吾兄を
		一つ松
 		人にありせば 
 		大刀佩けましを
		衣着せましを
		一つ松
		吾兄を 
 
	其の地より幸して三重(みえ)の村に到りし時に、また詔らさく、「吾が足は三重の勾(まがり)の如くして、甚
	(いと)疲れたり」。故、其の地を號けて三重と謂う。其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に國を思い
	て以ちて歌いて曰く、

		夜(や)麻(ま)登(と)波(は) 
		久(く)爾(に)能(の)麻(ま)本(ほ)呂(ろ)婆(ば)
		多(た)多(た)那(な)豆(づ)久(く)
		阿(あ)袁(お)加(か)岐(き)
		夜(や)麻(ま)碁(ご)母(も)禮(れ)流(る)
		夜(や)麻(ま)登(と)志(し)宇(う)流(る)波(は)斯(し)

		大和は 
		国のまほろば
		たたなづく
		青垣
		山ごもれる
		大和しうるはし
 
	また歌いて曰く、

		伊(い)能(の)知(ち)能(の)
		麻(ま)多(た)祁(け)牟(む)比(ひ)登(と)波(は)
		多(た)多(た)美(み)許(こ)母(も)
		幣(へ)具(ぐ)理(り)能(の)夜(や)麻(ま)能(の)
		久(く)麻(ま)加(か)志(し)賀(が)波(は)袁(を)
		宇(う)受(づ)爾(に)佐(さ)勢(せ)曾(そ)能(の)古(こ)

		命の
		全けむ人は
		畳薦
		平群の山の
		熊樫が葉を
		髻華に挿せその子 
 
	此の歌は思國歌(くにしのひうた)也。 また歌いて曰く、

		波(は)斯(し)祁(け)夜(や)斯(し)
		和(わ)岐(き)幣(へ)能(の)迦(か)多(た)用(よ)
		久(く)毛(も)韋(い)多(た)知(ち)久(く)母(も)

		愛しけやし
		我家の方よ 
		雲居たち來も 
 
	此は片歌也。此の時に御病(みやまい)甚だ急(にわ)かなり。爾くして御歌に曰く、

		袁(お)登(と)賣(め)能(の)
		登(と)許(こ)能(の)辨(べ)爾(に)
		和(わ)賀(が)淤(お)岐(き)斯(し)
		都(つ)流(る)岐(ぎ)能(の)多(た)知(ち) 
		曾(そ)能(の)多(た)知(ち)波(は)夜(や)

		乙女の
 		床の辺に
 		我が置きし
 		剣の大刀
 		その大刀はや

	歌い竟りて即ち崩りき。爾くして驛使(はゆまつかい)貢上(たてまつ)りき。

	是に倭(やまと)に坐しし后等、及び御子等、諸(もろもろ)下り到りて御陵を作りて即ち其の地の那豆岐(なづ
	き)田【那より下の三字は音を以ちてす】を匍匐(はらば)い廻(めぐ)りて哭き爲して歌いて曰く、

		那(な)豆(づ)岐(き)能(の)多(た)能(の)
		伊(い)那(な)賀(が)良(ら)邇(に)
		伊(い)那(な)賀(が)良(ら)爾(に)
		波(は)比(ひ)母(も)登(と)富(ほ)呂(ろ)布(ふ)
		登(と)許(こ)呂(ろ)豆(づ)良(ら)

		那豆岐の田の
		稲殻に
		稲殻に
		這ひ廻(もと)ろふ
		野老鬘(ところづら)
 
	是に八尋の白智鳥(しろちどり)と化りて、天に翔けりて濱に向いて飛び行【智の字は音を以ちてす】きき。 爾
	くして其の后、及び御子等、其の小竹(しの)の苅杙(かりくひ)に足を(き)り破ると雖も、其の痛みを忘れ以
	ちて哭き追いき。 此の時に歌いて曰く、

		阿(あ)佐(さ)士(じ)怒(の)波(は)良(ら)
		許(こ)斯(し)那(な)豆(づ)牟(む)
		蘇(そ)良(ら)波(は)由(ゆ)賀(か)受(ず)
		阿(あ)斯(し)用(よ)由(ゆ)久(く)那(な)

		浅小竹原
		腰沈む
		空は行かず
		足よ行くな
 
	また其の海鹽(うしお)に入りて那(な)豆(づ)美(み)【此の三字は音を以ちてす】行きし時に、歌いて曰く、

		宇(う)美(み)賀(が)由(ゆ)氣(け)婆(ば)
		許(こ)斯(し)那(な)豆(づ)牟(む)
		意(お)富(ほ)迦(か)波(は)良(ら)能(の)
		宇(う)惠(え)具(ぐ)佐(さ)
		宇(う)美(み)賀(が)波(は)
		伊(い)佐(さ)用(よ)布(ふ)

		海処ゆけば
		腰沈む
		大河原の
		植え草
		海処は
		いさよふ
 
	また飛びて其の磯に居し時に、歌いて曰く、

		波(は)麻(ま)都(つ)知(ち)登(ど)理(り)
		波(は)麻(ま)用(よ)波(は)由(ゆ)迦(か)受(ず)
		伊(い)蘇(そ)豆(づ)多(た)布(ふ)

		浜つ千鳥
		浜よは行かず
		磯伝ふ 

	是の四つの歌は皆其の御葬(みはふり)の歌也。故、今に至りて其の歌は天皇の大御葬(おおみはふり)に歌う
	也。
	故、其の國より飛び翔けり行きて、河内の國の志幾(しき)に留りき。故、其の地に御陵を作りて鎭め坐す也。
	即ち其の御陵を號けて白鳥の御陵と謂う也。然れどもまた其の地より更に天に翔けりて以ちて飛び行きき。凡そ
	此の倭建の命、國を平げ廻り行きし時に、久米の直の祖、名は七拳脛(ななつかはぎ)、恆(つね)に膳夫(か
	しわで)と爲して以ちて從い仕え奉る也。
	此の倭建の命、伊玖米の天皇の女、布多遲能伊理毘賣(ふたぢのいりひめ)の命【布より下の八字は音を以ちて
	す】を娶りて生みし御子は、帶中津日子(たらしなかつひこ)の命【一柱】。また其の海に入りし弟橘比賣(お
	とたちばなひめ)の命を娶りて生みし御子は、若建(わかたける)の王(みこ)【一柱】。また近つ淡海の安
	(やす)の國造の祖、意富多牟和氣(おほたむわけ)の女、布多遲比賣(ふたぢひめ)を娶りて生みし御子は、
	稻依別(いなよりわけ)の王【一柱】。また吉備の臣、建日子(たけひこ)の妹、大吉備建比賣(おおきびつひ
	め)を娶りて生みし御子は、建貝兒(たけかいこ)の王【一柱】。また山代の玖玖麻毛理比賣(くくまもりひめ)
	を娶りて生みし御子は、足鏡別(あしかがみわけ)の王【一柱】。また一(ある)妻(みめ)の子は息長田別
	(おきながたわけ)の王。凡そ是の倭建の命の御子等は并せて六柱。
	故、帶中津日子の命は天の下治しめしき。次に稻依別の王は【犬上(いぬかみ)の君・建部(たけるべ)の君
	等の祖】。次に建貝兒(たけかいこ)の王は【讚岐の綾の君・伊勢の別・登袁(とお)の別・麻佐(まさ)の首、
	宮の首の別等の祖】。足鏡別の王は【鎌倉の別、小津の石代(いわしろ)の別、漁田(いさりた)の別の祖也】。
	次に息長田別(おきながたわけ)の王の子、杙俣長日子(くひまたながひこ)の王。此の王の子は飯野眞K比賣
	(いいのまくろひめ)の命。次に息長眞若中比賣(おきながまわかなかひめ)。次に弟比賣【三柱】。故、上に
	云える若建の王、飯野眞K比賣を娶りて生みし子は須賣伊呂(すめいろ)大中日子(おおなかひこ)の王【須よ
	り呂までは音を以ちてす】。此の王、淡海の柴野入杵(しばのいりき)の女、柴野比賣(しばのひめ)を娶りて
	生みし子は迦具漏比賣(かぐろひめ)の命。

	故、大帶日子(おおたらしひこ)の天皇、此の迦具漏比賣(かぐろひめ)の命を娶りて生みし子は大江の王
	【一柱】。此の王、庶妹(ままいも)銀(しろかね)の王を娶りて生みし子は大名方(おおなかた)の王、次に
	大中比賣の命【二柱】。故、此の大中比賣の命は香坂(かぐさか)の王・忍熊(おしくま)の王の御祖也。
	此の大帶日子の天皇の御年は壹佰參拾漆歳(ももとせあまりみそとせあまりななとせ)。御陵は山邊の道の上に
	在り。









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