【第76代 近衛(このえ)天皇】 別名: 躰仁(/体仁:なりひと) 誕生崩御: 保延5年(1139) 〜 久寿2年(1155)(17歳) 在位: 永治元年(1141) 〜 久寿2年(1155) 父: 鳥羽上皇 第8皇子 母: 藤原得子(:) 皇后: 藤原多子、藤原呈子 皇妃: 橘某、藤原某、紀某、他 皇子女: 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 安楽寿院南陵(あんらくじゅいんみなみのみささぎ:京都府京都市伏見区竹田内畑町)
生後間もなく、異母兄である崇徳帝の皇后・聖子の養子となり、立皇太子する。鳥羽法皇は、(白河法皇の子ではなく)自分のほん との皇子躰仁(なりひと)親王が生まれると、これを次代の天皇とするためにむりやり世継ぎの無かった崇徳天皇の養子(皇太弟) にした。ところがその翌年崇徳天皇に皇子が生まれ、躰仁親王の廃太子をおそれた法皇は、今度は崇徳帝の皇子を自分の養子とした。 躰仁親王はわずか3才で「近衛天皇」となるが幼時より病弱で、17才の時眼病が元で崩御する。
崇徳上皇は、鳥羽法皇の養子となった重仁親王に「近衛天皇」の次を譲りたいと願うが、鳥羽法皇の強大な力に屈しそれはかなわな かった。「近衛天皇」の病死は、一書によれば崇徳上皇側の呪詛によるものとされているが、これも全て「鳥羽法皇」の策略による ものであった。天皇の早世を崇徳上皇らの呪詛によるものとする鳥羽法皇によって崇徳上皇の願いは退けられ、天皇の異母兄で法皇 の第4皇子、上皇の同母弟でもある雅仁親王(後白河天皇)が即位した。このことが、後の乱世を誘発する大きな要因となる。
この天皇陵は他と違って多塔仕立てになっている。美福門院(鳥羽天皇皇后:近衛天皇の母)が建てたものだが、豊臣秀頼が再建し たと縁起にある。権謀術数渦巻く中、17才で崩御した可愛い我が子を偲ぶ母の心根がせつない。
「院政開始の地」碑。決して称えるような善政の世だったわけではない。武力集団の台頭の中で、権力闘争に明け暮れた天皇一族の、 むしろ「慚愧・悔恨の地」碑である。この時代の「院政」によって、天皇家の歴史は相当地にまみれたとも言える。