Music: 離宮にて

第6代 孝安天皇
2000.SEP.23 奈良県御所市玉手 玉手丘上陵






	<第6代 孝安天皇>
	異称: 大倭帯日子国押人命(古事記)/日本足彦国押人尊(日本書紀)【(おお)やまとたらしひこくにおしひとのみこと】
	生没年: 〜(?)  123歳(古事記)/137歳(日本書紀)
	在位期間  孝昭天皇83年〜孝安天皇?年 
	父: 孝昭天皇 第二子
	母: 余曽多本毘売命【よそたほびめのみこと:古事記】/世襲足姫【よそたらしひめ:日本書紀】
	皇后: 忍鹿比売(姪:おしかひめ)【古事記】/押媛(兄、天足彦国押人命の娘:おしひめ)【日本書紀】
	皇子皇女:大日本根子彦太尊/大倭根子日子賦斗邇命【おおやまとねこひこふとにのみこと】
	宮: 秋津島宮(あきつしまみや)【奈良県御所市室?】
	陵墓: 玉手丘上陵(たまでのおかのうえのみささぎ:奈良県御所市大字玉手)



	この天皇も第二子であり長男ではない。神武以来、長男が皇位を継がないのは古代に何かそういう慣行があったのか、それ
	とも記紀の編者が創作した別の意図があったのだろうか? なにか気になる造作ではある。
	二代綏靖天皇から八代開化天皇までは記紀にその史実をほとんど残さず、実在の可能性は極めて低いとされ「欠史八代」な
	どと呼ばれるのだが、それらの天皇の大部分が、御所市とその周辺に宮居を営んだという伝承を残すのは、何故なのだろう。
	鳥越憲三郎氏の「葛城王朝論」は、こうした御所市を中心とする南葛城地方に、格式の高い神社や大和朝廷成立前夜に関わ
	る伝承が集中することなどを根拠にしている。

 


	御所市にある「一言主神社」が祀る一言主神については記紀に記事がある。
	「日本書紀」では、雄略天皇が山中で一言主神に出会い、「お前は誰か」と訪ねるが一言主神は「お前こそ誰だ」と一歩も
	引かない。雄略天皇から「ワカタケルである。」と名乗りをあげる。

 


	「古事記」にも同じような記事が載っているが、細部で書記とは異なっている。雄略天皇は一言主神を見つけて、自分と変
	わらぬ装束や態度に驚き、「この倭の国に、私以外に王はないはずだぞ。」と怒り、互いに弓を構えて一触即発の状況とな
	った。すると、一言主は「吾は悪事も一言、善事も一言で言い放つ、葛城の一言主神だぞ。」と答えた。「古事記」では一
	言主の方が先に名乗ったことになっているが、しかし、これを開いた天皇は「恐し、我が大神」と大いにかしこまった。
	そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて献上すると、一言主神は手を打って喜びそれを受け取った、と書いてある。
	まるで、山賊に出会って、丸剥ぎにされたような記事だが、一言主神の威厳に満ちた態度は「日本書紀」と変わらない。

 


	「日本書紀」では先に名乗らせ、「古事記」では衣服を献上させているのが一言主神なのである。天皇をもかしこまらせる
	この「一言主神」とは、いったい何者だったのだろう。これらから、葛城の神、即ち、葛城地方を本拠としていた集団勢力
	の強大さがうかがい知れる。

 

そう見てくると、鳥越憲三郎氏の「葛城王朝論」も、奇想天外な説などではなく大いに信憑性の高い説のようにも思えてくる。



小高い山の上に古墳は造られている。右手の建物はこの古墳の下手に建っている寺である。


	
	【大倭帶日子國押人命】孝安天皇 (古事記)

	大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。
	此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命。次、大倭根子日子賦斗邇命。【二柱。自賦下三字以音】
	故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年壹佰貳拾參歳。御陵在玉手岡上也。



	【大倭帶日子國押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)】孝安天皇

	大倭帶日子國押人の命、葛城の室の秋津嶋の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇、姪(めい)忍鹿比賣(おしかひめ)の命を娶りて生みし御子は大吉備諸進(おおきびもろすすみ)の命。
	次に大倭根子日子(おおやまとねこひこ)賦斗邇(ふとに)の命【二柱。 賦より下の三字は音を以ちてす】。
	故、大倭根子日子賦斗邇の命は天の下治しめしき。
	天皇の御年は壹佰貳拾參歳(ももとせあまりはたそとせあまりみとせ)。御陵は玉手の岡の上に在り。




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