Music: 離宮にて

第5代 孝昭天皇
2000.9.23 奈良県御所市三室 掖上博多山上陵






	<第5代 孝昭天皇>
	異称: 御真津日子訶恵志泥命(古事記)/観松彦香殖稲尊(日本書紀)【みまつひこかえしねのみこと】 
	生没年 紀元前506(懿徳天皇3年)〜前393(?)   93歳(古事記)/113歳(日本書紀)
	在位期間  紀元前475(懿徳天皇34年)〜前393(?) 
	父: 懿徳天皇(古事記・日本書紀)
	母: 賦登麻和訶比売命【ふとまわかひめのみこと:古事記】/天豊津媛命【あまとよつひめのみこと日本書紀】
	皇后: 余曽多本毘売命【よそたほびめのみこと:古事記】/世襲足姫【よそたらしひめ:日本書紀】
	皇子皇女:日本足彦国押人尊/大倭帯日子国押人命【おお)やまとたらしひこくにおしひとのみこと】
	宮: 掖上池心宮(わきのかみのいけごごろのみや)【奈良県御所市?】
	陵墓: 掖上博多山上陵(奈良県御所市三室字博多山)

 


	皇后は、古事記によれば、尾張連(おわりのむらじ)の祖、奥津余曽の妹、余曽多本毘売命をそして日本書紀によれば、尾
	張連の遠祖、興津余曽(おきつよそ:おきと言う時はワ−プロにない)の妹世襲足姫を迎えたとなっているが、後世の書で
	は全然違う名前も見える。
	日本書紀には、推古天皇21年( 613)に、掖上池を池之内に造らせたという記事が見え、これは今の奈良県御所市池之内
	である事から掖上池心宮もここではないかという説が有力。





御所市一帯もまた古代の息吹を感じさせる土地である。

一言主神社があり、秋津島宮跡があり、高天原もある。
我が歴史倶楽部の会員「河内さん」の伯父さんである歴史学者の「鳥越憲三郎氏」は、その著書『神々と天皇の間−大和朝廷成立の前夜』(朝日新聞社刊)で、この付近を「葛城氏の本拠地で、葛城王朝の発祥地」とした。
また、記紀神話の「高天原」の呼び名はこの高天(たかま)の台地から出たと言う。
昔の葛木山の最高峰になる金剛山頂の真下に、高天(たかま)という集落がある。 標高450メートルあり、大和平野や吉野の山々が見漉せる台地状の地形に水田もかなり広がっていて、記紀神話の高天原だとする伝承が昔からあるのである。

鳥越憲三郎氏の論旨は次のようなものだ。

弥生時代の中期ごろ、御所市南部の金剛山麓の丘陵地に、畑作と狩猟に生き、高皇産霊神を祀る「葛城族」がいた。やがて、御所市北部の肥沃な平地にいた鴨族を服属させて水稲農業を始め、「葛城王朝」を樹立、後に大和朝廷に成長していった。
そして、発祥の地の高天の台地を、遠い記憶にある祖先の神々がいた場所と考え「高天原」と呼んだ、というものだ。
更に、現在「欠史八代」などと呼ばれている第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの神々達こそ、ここで葛城王朝を築いた神々達だと言うのである。
一般的には、欠史八代の天皇達は古事記編纂の際、時系列の調整のため後世になって捏造された天皇であって、実在性はないとされているが、鳥越氏は実在したとする。この構想もなかなか面白い。記紀にはこの欠史八代についての記載は殆どなく、そのため作為説が出現するのであるが、何らかの史実がありその伝承が記紀神話となっている可能性もまるっきり無いわけではない。しかし「葛城王朝説」もまた、現在の所学会の主流にはなり得ていない。

勿論神話の高天原は実在したはずもなく、在ったとすればこの地上のどこかにあった土地のはずないのだが、夏でも冷んやりした風が吹く高天の台地は、いかにも「神話の里」の雰囲気を漂わせていて、ロマンを求めて訪れる古代史ファンが後を絶たない。




	以下は鳥越憲三郎氏の著書「神々と天皇の間」から抜粋



	葛城王朝の出自を究明するにあたって、もっとも重要な部族は葛城族である。この葛城族からは後世に歴史的人物が多く排
	出した。第八代孝元天皇の皇子である彦太忍信命の孫、武内宿禰は俗に、五代にわたる天皇に仕えたといわれ、明治以来の
	日本紙幣にその顔が見えて、国民に広く親しまれている人物である。この武内宿禰の子が葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)
	で、その娘の磐之媛は仁徳天皇の后となり、后の生んだ皇子から履中、反正、允恭の各天皇がでている。また、武内の宿禰
	を祖とする氏族は非常に多く、巨勢、平群、紀、石川、蘇我などの歴史的に活躍した豪族が名をつらねている。しかし、そ
	れらの各氏族は、武内宿禰や葛城襲津彦に自をもとめているものの、その源である皇子の彦太忍信命は第三子であって、葛
	城族の本宗ではない。古く、葛城の地域に栄えていた葛城族の本宗とその流れは、雲の中に消えて、つかむことができなく
	なっている。そのために、一般に葛城襲津彦が葛城氏の本家にみたてられているが、真実の本宗はどこできえたのであろう
	か。ここにこの部族の秘められた謎がある。
	葛城族の祖先の名を文献の上で示すものは「日本書紀」神武天皇の条にみえる剣根である。神武天皇が大和を平定されて後、
	その戦いに参加した各部族の論功行賞が行われ、「また剣根という者をもて葛城国造となす」と記されている。国造の制を、
	神武天皇の時代までさかのぼらすことは無理であろうが、そのことは別の問題としても、葛城族の祖先として、剣根の名を
	示しているのである。

	このほかに「旧事本紀」の尾張族の系譜にもみえ、三世の天忍男命が「この命、葛木土神、剣根の女、賀奈良知姫を妻とし
	二男一女を生ましむ」とある。この尾張氏の祖先は前に考証したように、葛城山の中央山麓に古くから居住していた部族で
	ある。それが葛城の土豪である剣根の娘を娶ったというのであるが「葛木土神」を信仰していたこの部族は、葛城地域のど
	こに住んでいたのであろうか。

	葛城氏の系譜では、高皇産霊神を祖神としている。したがってこの神をまつるところが、またこの部族の居住地でもあった
	ことになる。ところが好都合に、金剛山に中腹に延喜の制で名神大社であった高天彦神社があり、その祭神が高皇産霊神で
	ある。しかも、この葛城の地域における名神大社の中で、この高天彦神社は、これまでのべてきた各部族とも関係しないで
	のこるただ一つの神社でもある。そこで、この高天彦神社に焦点をあてて、葛城族の出自を探っていくことにしよう。

	高皇産霊神を祖神とする葛城各氏のすべてが、高天彦神社をまつる金剛山の中腹の台地とすそに、部族として発祥したこと
	はみとめねばならない。その金剛山から下りて、葛城王朝を樹立したのは、鴨族がすでに先住開拓していた葛城山下の平坦
	地であった。もっとはっきり言えば、御所市の町の南端で事代主神を中心に定着していた鴨族の土地から、わずか三キロメ
	ートル西にいった柏原の地である。そののちは鴨族の地内まで入って都を自由にうつした。そのことは、鴨族との政治的結
	合がなされた結果だといえる。

	葛城王朝の崩壊の後、この王朝の最後の王であった開化天皇の異母弟、彦太忍信命の子孫から武内宿禰が出て、彼の功績に
	よって葛城氏を再考する機会を与えられ、その子の葛城襲津彦が葛城氏の本宗として地位をきずきあげた。しかし、この葛
	城氏の本宗も数代にして亡び、それに代わって一族の蘇我氏が後に台頭する。




	【御眞津日子訶惠志泥命】孝昭天皇  (古事記)

	御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。
	此天皇、娶尾張連之祖、奧津余曾之妹、名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命。次、大倭帶日子國押人命。【二柱】
	故、弟、帶日子國忍人命者、治天下也。兄、天押帶日子命者
	【春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、
	伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。】
	天皇御年、玖拾參歳。御陵在掖上博多山上也。


	【御眞津日子訶惠志泥命(みまつひこかえしねのみこと)】孝昭天皇
 
	御眞津日子訶惠志泥の命、葛城の掖上(わきがみ)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇、尾張の連が祖、奧津余曾(おきつよそ)の妹、名は余曾多本毘賣(よそたほびめ)の命を娶りて生みし御子は、
		天押帶日子(あめおしたらしひこ)の命。 次に大倭帶日子國押人(おおやまとたらしひこくにおしひと)の命
	【二柱】。故、弟(おと)帶日子國忍人(たらしひこくにおしひと)の命は天の下治しめしき。 兄(え)天押帶日子
	(あめおしたらしきこ)の命は【春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壹比韋(いちひい)の臣、大坂
	の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗(はぐり)の臣、知多(ちた)の臣、牟耶(むざ)の臣、都怒山(つ
	のやま)の臣、伊勢の飯高(いいたか)の君、壹師(いちし)の君、近つ淡海(おうみ)の國造の祖也】。
	天皇の御年は玖拾參歳(ここのそとせあまりみとせ)。 御陵は掖上(わきがみ)の博多山(はかたやま)の上に在り。








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