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第36代 孝徳天皇陵
大阪府南河内郡太子町 2000.7.20



 


		【第36代 孝徳(こうとく)天皇】

		諡名: 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと) 
		異名: 軽皇子(かるのみこ)
		生没年: 推古4年(596)〜 白雉5年(654)10月10日 59歳  
		在位: 皇極天皇4年(大化元年(645))6月14日 〜 白雉5年(654)
		父:  茅渟王(ちぬおう:敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の子)
		母:  吉備姫王(きびひめ:欽明天皇の孫)
		皇后: 間人皇女(はしひとひめ:舒明天皇の娘)
		皇妃: 阿倍小足媛(あべのおたらしひめ:阿倍倉梯麻呂の娘)、蘇我乳娘(そがのちのいらつめ:蘇我倉山田石川麻呂の娘)
		皇子女: 有間皇子・・・母は阿倍小足媛
		宮居:  飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)、
		    難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪府大阪市東区法円坂町)  
		御陵: 大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ:大阪府南河内郡太子町)




		舒明天皇が崩御して、皇后がその後を継ぎ皇極天皇となる。有力な後継者であった山背大兄皇子は、蘇我入鹿の手にかかり、一族全
		員皆殺しにあってしまう。中大兄皇子が、自分の身にも危険を感じたとしても不思議ではない。蘇我入鹿を倒さなければ次は自分だ
		と思ったのは想像に難くない。
		権勢を誇る蘇我入鹿の存在を、こころよく思わない人物がもう一人いた。蘇我氏に滅ばされた物部氏に従っていた中臣鎌子(なかと
		みのかまこ:後、藤原鎌足)である。鎌子は中大兄皇子と結託し、蘇我石川麻呂をも仲間に引き入れ、蘇我入鹿を滅ぼす。
		世に「大化の改新」(乙巳の変:いっしのへん)と呼ばれるクーデターである。




		皇極天皇は、この事件の責任をとる形で退位、即座に息子の中大兄皇子に即位を促した。だが、中大兄皇子は即位せず、実際には皇
		極帝の同母弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位した。はじめ軽皇子は、舒明天皇の長子古人大兄
		皇子(ふるひとのおおえみこ)がふさわしいと辞退するが、古人大兄皇子は仏門にはいるからと皇位継承を辞退して、その申し入れ
		をするやいなや、太刀を抜き髪と髭を切り落とし、たちまち僧形となった。そこでやむなく軽皇子が即位したとある。

		こういう記事を読むと、この時の天皇の地位がいかに危ういものかをみんな知っており、誰もなりたがらなかった状況がうかがえる。
		即位した孝徳天皇は、難波へ遷都し長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)に都を構える。現在大阪市にある難波宮跡の「前期難波の
		宮跡」と呼ばれる部分がこの宮跡ではないかと考えられている。

		孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任じた。中臣鎌足には大錦(だいきん)
		の冠位を授け内臣(うちつおみ)とした。天皇は、東国の国司らを集め戸籍を作り田畑の調査を命じたり、有名な「大化の詔(みこ
		とのり)を発したりしたが、しかし結局この天皇は、所詮中大兄皇子・中臣鎌子らの傀儡でしかなく、最後には中大兄皇子と仲違い
		の末、一人長柄豊碕宮に取り残され、中大兄皇子らは飛鳥へ引き上げてしまう。中大兄皇子の独走に怒った天皇は、恨みを抱いて皇
		位を捨て山碕離宮に隠遁しようとしたが、離宮の完成を見ることなく長柄豊碕宮に没した。陵は、竹内街道に面した小高い丘の端に
		ある。

 


		前項で紹介したのが一般的な孝徳天皇についての知見であるが、最近変わった説も登場している。それは概略以下のようなものであ
		る。「乙巳の変後、中大兄皇子は即位していない。皇太子でいるほうが都合が良かった為とされるが、当時、天皇より皇太子のほう
		が実権を握っていたという証拠はない。中大兄が19歳という若さだったことも考えると、乙巳の変における中大兄の役割が、『日本
		書紀』に記されている通りだったか疑問の余地がある。 軽皇子の本拠は難波で、中臣鎌足の本拠もまた難波に近かったことから、も
		ともとは軽皇子と中臣鎌足が結びつき、蘇我入鹿暗殺と軽皇子即位を企てたのではないか。」というものである。 勿論そういう見方
		もできなくはない。
		しかし、こういう見解は『日本書紀』の内容を疑う事になる。全面的に疑ってしまえば「そもそも大化改新など無かったのだ。」と
		いう説も登場しうる。ある部分は信用しある部分は自己の推理で説を展開するというのは、小説ならいざしらず、すくなくとも新し
		い証拠や証明が展開されない限り、歴史家の取るべき態度ではないような気がする。


  


		おそれ多いかなとは思ったが、みんな腹が減っていたと見えて「もうここで食おう!」と御陵の境内で昼飯となった。通り道の酒屋で
		買った「太子ワイン」がまだ冷えててうまかった。御陵めぐりをしているようなおばさんが一人通りかかったが、「このバチあたりめ
		が」というような顔をして通り過ぎていった。




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