【第122代 明治(めいじ)天皇】 異称: 睦仁(むつひと) 生没年: 嘉永5年(1852) 〜 明治45年(1912)(61歳) 在位: 明治元年(1868) 〜 明治45年 父: 孝明天皇 母: 中山慶子 皇后: 一条美子 皇妃: 柳原愛子、葉室光子、橋本夏子、千種任子、園祥子 皇子女: 稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、薫子内親王、敬仁親王、嘉仁親王(大正天皇)、 韶子内親王、章子内親王、静子内親王、猷仁親王、昌子内親王、房子内親王、 允子内親王、輝仁親王、聡子内親王、多喜子内親王 皇居: 江戸城(えどじょう:東京都千代田区) 御陵: 伏見桃山陵 ふしみのももやまのみささぎ:京都府京都市伏見区桃山町古城山)
途中に桓武天皇陵への近道があった。桓武陵からは気づかなかったが失敗した。これを来れば 少しは近かったに違いない。桓武陵にも沢山野良猫がいたが、ここでもあちこちで気持ちよさ そうにひなたぼっこをしている。
孝明天皇の突然の死を受けて16才で践祚(せんそ)。慶応3年(1867)10月、徳川慶喜は大政を 朝廷に奉還し、これを受けて「王政復古」の大号令を発した。翌4年「五箇条のご誓文」を定 め、年号を「明治」とし東京に遷都した。明治政府は、近代国家の礎造りにこの天皇を徹底的 に利用した。天皇制が確立して以来、政府によって勤務時間(AM10:OO〜PM4:00)が定められ たはじめての天皇となって、その行動は拘束された。 明治政府は、幕府が倒れ雄藩による混合新政府の混乱を治めるためにも、また挙国一致のスロ ーガンの元、国民を政府の路線に従わせるためにも、天皇を「天照大神」直系の「現人神」と して崇め、精神的支柱とすることで国体を富国強兵へ駆り立てていった。 「天皇=神」という普遍的な観念の元、日本は日清・日露の戦争に勝利し、以後「神国・皇軍」 という観念も定着する。61才で崩御するまで46年間在位した。 この天皇は、皇后との間には皇子はない。「皇統譜」には15人の皇子・皇女が記されているが 全て5人の女官を母としている。その為、他にも所謂御落胤があった事は容易に想像できる。 事実、昭和30年代になって自称「明治天皇の御落胤」がマスコミに数人登場しているが、いず れも公式には無視され続け、やがて言及する者もいなくなってしまった。「面白うて、やがて 悲しき・・・」である。
昭憲皇太后は嘉永3年(1850)、一条忠香(ただか)の第3女として誕生した。一条家は藤原家 の分家で、遠祖は藤原道長である。幼少時より資性聡明で、仁慈、博愛、謙譲、貞節と言う言葉 が並び、尊くも美わしい婦徳のかがみと仰がれている(学習院案内)。殊に女子教育の奨励と博 愛、慈善事業について、大きな役割を果たしている。日本赤十字社の設立にも多額の援助を行い、 お茶の水の東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の設立にも努力した。明治元年12月28 日入内後、皇后の宣下(せんげ)があり明治天皇の皇后となった。大正3年4月11日崩御。