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第122代 明治天皇陵
2000.March 伏見桃山陵 京都市東山区


この天皇陵は歩いて行くにはどの駅からも遠い。近鉄・京阪「丹波橋」駅、京阪「中書島」駅、どこからも30分はかかる。

 

			【第122代 明治(めいじ)天皇】
			異称:  睦仁(むつひと)
			生没年: 嘉永5年(1852) 〜 明治45年(1912)(61歳)
			在位:  明治元年(1868) 〜 明治45年
			父:   孝明天皇
			母:   中山慶子
			皇后:  一条美子 
			皇妃:  柳原愛子、葉室光子、橋本夏子、千種任子、園祥子  
			皇子女: 稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、薫子内親王、敬仁親王、嘉仁親王(大正天皇)、
				 韶子内親王、章子内親王、静子内親王、猷仁親王、昌子内親王、房子内親王、
				 允子内親王、輝仁親王、聡子内親王、多喜子内親王  
			皇居:  江戸城(えどじょう:東京都千代田区)  
			御陵:  伏見桃山陵 ふしみのももやまのみささぎ:京都府京都市伏見区桃山町古城山)

 

今まで見た天皇陵の中で一番デカい。杉木立の中を相当歩いて行く。10分程は歩いただろうか。

 


		途中に桓武天皇陵への近道があった。桓武陵からは気づかなかったが失敗した。これを来れば
		少しは近かったに違いない。桓武陵にも沢山野良猫がいたが、ここでもあちこちで気持ちよさ
		そうにひなたぼっこをしている。

  

 





 

陵は円墳である。完全に古墳時代を意識した墓に戻ってしまった。






		孝明天皇の突然の死を受けて16才で践祚(せんそ)。慶応3年(1867)10月、徳川慶喜は大政を
		朝廷に奉還し、これを受けて「王政復古」の大号令を発した。翌4年「五箇条のご誓文」を定
		め、年号を「明治」とし東京に遷都した。明治政府は、近代国家の礎造りにこの天皇を徹底的
		に利用した。天皇制が確立して以来、政府によって勤務時間(AM10:OO〜PM4:00)が定められ
		たはじめての天皇となって、その行動は拘束された。

		明治政府は、幕府が倒れ雄藩による混合新政府の混乱を治めるためにも、また挙国一致のスロ
		ーガンの元、国民を政府の路線に従わせるためにも、天皇を「天照大神」直系の「現人神」と
		して崇め、精神的支柱とすることで国体を富国強兵へ駆り立てていった。
		「天皇=神」という普遍的な観念の元、日本は日清・日露の戦争に勝利し、以後「神国・皇軍」
		という観念も定着する。61才で崩御するまで46年間在位した。

		この天皇は、皇后との間には皇子はない。「皇統譜」には15人の皇子・皇女が記されているが
		全て5人の女官を母としている。その為、他にも所謂御落胤があった事は容易に想像できる。
		事実、昭和30年代になって自称「明治天皇の御落胤」がマスコミに数人登場しているが、いず
		れも公式には無視され続け、やがて言及する者もいなくなってしまった。「面白うて、やがて
		悲しき・・・」である。

 

南に宇治方面が望める素晴らしい眺望。石段はえらく急だ。これを転がり落ちたらまず助かるまい。

 

こちらが正式には陵への入り口である。私は反対側から歩いてきたことになる。

 

 

昭憲皇太后(明治天皇皇后)陵




 

石段の下から迂回して昭憲皇太后陵へ行けるが、私は明治天皇陵(石段の上)から皇后陵へ降っていった。
 

えらく急な坂で降りきったところに陵がある。明治天皇と同じように円墳の格好をした墓だ。

 


		昭憲皇太后は嘉永3年(1850)、一条忠香(ただか)の第3女として誕生した。一条家は藤原家
		の分家で、遠祖は藤原道長である。幼少時より資性聡明で、仁慈、博愛、謙譲、貞節と言う言葉
		が並び、尊くも美わしい婦徳のかがみと仰がれている(学習院案内)。殊に女子教育の奨励と博
		愛、慈善事業について、大きな役割を果たしている。日本赤十字社の設立にも多額の援助を行い、
		お茶の水の東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の設立にも努力した。明治元年12月28
		日入内後、皇后の宣下(せんげ)があり明治天皇の皇后となった。大正3年4月11日崩御。

 

<謝辞> 昭憲皇太后(明治天皇皇后)陵印は、奈良の今崎さんからご提供いただきました。


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