第42代 文武(もんむ)天皇別名: 軽(珂瑠:かる)、倭根子豊祖父(やまとねことよおおじ)/天之真宗豊祖父(あまのまむねのとよおおじ) 父: 草壁皇子 第2子 母: 元明天皇(天智天皇皇女:阿閉[あへ]皇女) 生没年:天武天皇12(683)〜慶雲4(707)25才 在位: 文武天皇元年(697)〜慶雲4(707) 皇后: 宮子(みやこ:藤原不比等の娘) 皇妃: 紀朝臣竈門娘(かまどのいらつめ)、石川刀子娘(とねのいらつめ) 皇子女: 首親王(おびとしんのう:後の聖武天皇) 皇居: 藤原宮(ふじわらぐう:奈良県明日香村) 御陵: 檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのみささぎ:奈良県明日香村)
天武天皇の孫で、草壁皇子(追尊岡天皇)の第二子。漢風諡号は文武天皇、和風諡号は天之真宗豊祖父天皇。 天武天皇崩御時に、実子草壁皇子を即位させんがため、持統天皇は大津皇子を謀反の口実で死に追いやるが、その草壁皇子も神経を 病んで持統3年に死んでしまう。結局持統天皇は、孫で草壁の遺児「軽皇子」に皇位を継がせるため、自ら即位し中継ぎとなる。 持統10年7月に高市皇子が死去すると、15才の軽皇子を立太子に立て(『釈日本紀』私記)、翌月譲位する。
この帝の治世は、大宝律令の制定による律令国家の建設が一応の完成をみた時代であり、そのための多くの施策が施行された。 文武2年(698)の諸国郡司の任命、諸国田疇(でんちゅう)の巡監、公私奴婢の逃亡禁止対策(笞[ち]法)など、耕地関係の整備や、 文武3年には鋳銭司を設置し、同4年巡察使を東山道に遣わすなど、中央集権国家の基礎を固めている。 また同じ年、刑部親王・藤原不比等らに律令整備を命じ、大宝元年(701)年『大宝令』が完成する。翌年これを施行し、官名位号を 改正した。また、知太政官事(ちだじょうかんじ)の任命や、鍛冶司(かじし)に諸国印を造らせるなどして田租制度の改革にも意 を注ぎ、大宝令以後の律令制度の定着に努めた。正丁の歳役庸の法、義倉戸粟法、皇親籍等も改正し、諸制の改革を行いながら、 一方では、南島にも使を派遣して薩摩・種子島を征討するなど版図拡大も図っている。
藤原不比等の女宮子を皇后とし、首皇子(聖武天皇)をもうけ、同母姉に元明天皇・吉備内親王がいる。『懐風藻』、『万葉集』に御製の 歌があり、温厚な人柄で中国の書籍にも明るく、また弓術にも秀でていたという。父草壁皇子と皇子時代によく行った大宇陀の阿騎野で 軽皇子が猟りをする場面を柿本人麻呂は歌に詠んでいる。尚、役小角が讒(ざん)言で伊豆に流されたと言うのもこの帝の御代である。
慶雲4(707)年、文武天皇は重病に陥り25才の若さで崩御する。死に際し、母(のち元明天皇)に譲位の意思を示して死去したとされる。 遺体は飛鳥岡で火葬に付され、檜隈安古山陵に葬られたと「続日本記」にある。 現文武天皇陵墓は明日香村高松塚古墳の東方向2,3分の所(飛鳥駅より徒歩約15分)にあるが、ここから北の小高い丘に「中尾山古墳」 と呼ばれる小さな古墳があり、享保19(1734)年刊行の「大和志」という書物によれば、ここが文武天皇の陵とされているそうである。 一般に明治政府の御陵裁定はその根拠が極めて薄弱で、一体どんな理由で各天皇陵を比定していったのか全く資料を残していないが、 考古学界では例によって、内部の石槨の様子などから、中尾山古墳の方が文武天皇陸であった可能性が高いとされている。
飛鳥も京都と並んで秋には観光客で賑わう。京都と違って田舎道が多いためサイクリングが花盛りである。中学、高校生のグループや、 OL達のハイキング、中年夫婦やグループの歴史散策などで、おそらく1年中で一番賑わう季節だろう。