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第55代 文徳天皇陵
田邑陵 2001.11.17 京都市右京区太秦三尾町






				【第55代 文徳(もんとく)天皇】
				別名: 道康(みちやす)・田邑帝
				生没年:天長4年(827)〜 天安2年(858)32才
				在位: 嘉祥3年(850)〜 天安2年(858)
				父:  仁明天皇 第1子
				母:  藤原順子(ふじわらののぶこ)
				皇后: 藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)
				皇妃: 藤原古子、東子女王、藤原年子、藤原多賀幾子、藤原是子、紀静子、滋野岑子、滋野奥子、
					藤原今子、藤原列子、伴氏、多治氏、清原氏、菅野氏、菅原氏、布勢氏、橘忠子、橘房子  
				皇子女:惟喬親王、惟條親王、惟仁親王(清和天皇)、惟恒親王、晏子内親王、彗子内親王、述子内親王、珍子内親王、
					恬子内親王、儀子内親王、礼子内親王、濃子内親王、勝子内親王、掲子内親王、能有、毎有、時有、本有、
					定有、載有、憑子、謙子、列子、済子、奥子、行有、富有、富子、淵子、脩子  
				皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				御陵: 田邑陵(たむらのみささぎ:京都市右京区太泰三尾町 )

 


		京福電鉄の「鳴滝駅」で下車し、5分ほど住宅街を歩いていくとほどなく小高い丘に出る。石段と標識ですぐ御陵だとわかる。


		奈良時代の終わりまでに、藤原氏は天皇を象徴的な地位に追いやり、国政を執行した。この時代、藤原氏は他氏を退け覇権をほぼ
		確立したのである。しかし、他氏も滅亡したわけではない。隙あらば絶えず藤原氏を出し抜こうとしていた。奈良時代から平安時代
		にかけて、幾つかの事件が起きている。政権転覆のクーデターである。最初の事件は「承和の変」(842)であった。

 


		平安遷都からほぼ50年が過ぎて、世情も落ち着きを見せていた頃の騒ぎだけに、それはまさに「青天の霹靂」だった。
		淳和上皇、嵯峨上皇ともに健在のうちは政権も安定していたが、両上皇が相次いで崩ずるとたちまち異変が起こったのである。
		嵯峨上皇が崩御した際、「三筆」の一人として名高い「橘逸勢」(たちばなのはやなり)らは、政治的な空白をぬって皇太子恒貞
		(つねさだ)親王を即位させようと企んだ。結局は事ならず、荷担した藤原氏も入れて60数名が処罰されたのであるが、この事件
		は、実は藤原良房(よしふさ)が自分の身内を次期天皇にと企んだ陰謀だったという説が定説である。実際、良房の甥の道康親王が
		新皇太子になっており、その後「仁明天皇」の後を受けて文徳天皇として即位している。

 


		これ以前にも、藤原氏からは文武天皇や聖武天皇という天皇は出ているが、文徳天皇の場合は全く異なっていた。以前は象徴であっ
		ても、天皇は天皇として厳然と存在しており、その象徴天皇を藤原氏が獲得する、という図式だったものが、文徳天皇は藤原氏によ
		って創り出された天皇となったのである。「承和の変」の時は仁明天皇の御代だが、天皇家がこの事件に介入した形跡は認められず、
		この後文徳天皇の次、清和天皇の御代に起こった「応天門の変」(866)においても天皇家は政治紛争の当事者になることを避け、
		象徴としての地位にとどまったままであった。




		文徳天皇は仁明天皇の第1皇子で、承和の変によって、淳和上皇の第2皇子恒貞親王に代わって立太子した。仁明天皇没後即位する。
		天皇は第1皇子の惟喬親王を皇太子にしたかったが、権力者藤原良房の意志で、良房の孫にあたる生後9ヶ月の第4皇子惟仁親王(後
		の清和天皇)を皇太子に立てざるを得なかった。在位9年32歳で崩御し、わずか9歳の皇太子・惟仁親王が後を継いで即位し、藤原
		良房は人臣としては初の摂政となった。
		この帝の御代は、政治的には全くの藤原氏傀儡。文化的には、それまでの漢風文化から国風文化への転換期で、前帝仁明天皇と期同じ
		く、宮廷文化の成立期として位置づけられている。 

 




		【応天門の変】(宇治拾遺物語巻十)
		古来よりの名門大伴氏の中心人物だった伴善男(とものよしお)が、その子中庸(なかつね)とともに、応天門に火を付けた犯人と
		して流罪になる。大伴氏は、善男の祖父が藤原種継暗殺の犯人として処刑されてからは没落していたが、善男は氏族を立て直し、
		自身は大納言にまで昇進する。優秀な政治家だったが故に、敵を作ってしまったのだ。父子の流罪によって、大伴氏は完全にその
		勢力を失った。この変は、実体がよく分からない事件とされているが、これも藤原氏による陰謀説が根強い。この時期の勢力図と
		しては、藤原良房が太政大臣、弟の良相が右大臣の地位にあり、良房の養子で次世代の権力者「藤原基経」はまだ近衛中将の地位
		にあるが、これまでの良房の所作を考えれば、良房の陰謀説も無理からぬものがある。
	



		【藤原良房】
		藤原良房は、藤原北家の地位を確立した藤原冬嗣の子で、養子(甥)の基経とともに、藤原北家盤石の基礎を築いた人物。
		妹の順子を仁明天皇に入内させ、生まれた道康親王を承和の変のあと皇太子にする。次いで娘の明子をこの文徳天皇に
		入内させ生まれた惟仁親王を皇太子にする。斉衡4年(857)2月19日、藤原良房が太政大臣に任じられる。
		これは皇室の血を引かない者が太政大臣に任じられた最初となる。良房が太政大臣になった翌年、文徳天皇が急死する
		と、惟仁親王が践祚して清和天皇となる。更に良房は、清和天皇に養女(姪)の高子を入内させ、生まれた貞明親王を皇太
		子とし、彼は後に、陽成天皇として即位する。事ほど左様に、藤原家によって天皇として擁立された帝たちは、その擁護
		者である藤原家に逆らえる筈もなく、ここに良房・基経親子の地位は絶対のものとなった。



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