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第62代 村上天皇陵
村上陵 2001.11.10 京都市右京区鳴滝宇多野谷







					第62代 村上(むらかみ)天皇
					別名: 成明(なりあきら)・天暦帝
					父:  醍醐天皇 第14皇子
					母:  藤原穏子(藤原基経の娘)
					生没年:延長4年(926)〜 康保4年(967)42才
					在位: 天慶9年(946)〜 康保4年(967)
					皇后: 藤原安子
					皇妃: 藤原述子、徽子女王、荘子女王、藤原芳子、源計子、藤原祐姫、藤原正妃、
						藤原脩子、藤原有序、藤原登子
					皇子女:広平親王、憲平親王(冷泉天皇)、致平親王、為平親王、昭平親王、昌平親王、
					    守平親王(円融天皇)、皇子某、具平親王、永平親王、承子内親王、理子内親王、
					    保子内親王、規子内親王、盛子内親王、楽子内親王、輔子内親王、緝子内親王、
					    資子内親王、皇女某、選子内親王  
					皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
					御陵: 村上陵(むらかみのみささぎ:京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷)



円融天皇陵の前の道を300mほど山手へ歩いていくとこの御陵への石段が見えている。宇多野小学校(だったかな?)のすぐ前である。

 


		醍醐天皇の第14皇子で朱雀天皇(醍醐天皇の第11皇子)の同母弟。兄朱雀帝には継嗣がなかったため、天慶9年(946)、21才で践祚した。
		関白藤原忠平は穏和な性格で、よく村上天皇を補佐し良き治世を行ったとされており、この御代は世に「延喜・天暦の治」と呼ばれる。
		後世「枕草子」は、天皇を中心に政務が執行され、臣下がそれを補佐するという形式に、理想的な親政国家の姿をみている。
		関白太政大臣に忠平、左大臣に実頼、右大臣に師輔、権中納言に源高明、参議に藤原師尹、小野好古などがいた。 




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			   │           │           │
			  藤原忠平        藤原穏子=======60醍醐天皇
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			   │                 │
			  藤原師輔               │
			   │                 │
			   ├――――――――┐      ┌―┴―――┐
			   │        │      │     │
			  藤原兼家     藤原安子===62村上天皇 61朱雀天皇
			   │            │
			   │            │
			   ├―――――┐      ├――――――――┐
			   │     │      │        │
			  藤原道長 藤原詮子===64円融天皇    63冷泉天皇         
			   │        │            │


 


		しかしながら、天暦3年(949)に忠平が没した後も、天皇は摂関を置かず親政を行ったとされるが、それはおそらく形式上に過ぎず、
		政治の実権は実は右大臣藤原師輔が握っていたのではないかという説もある。「延喜・天暦の治」も、表面上は親政の形を取っていた
		が、ほんとは緩やかな摂関政治だったのではないかというのだ。後に続く、藤原兼通・兼家の北家台頭を見ると、ほんとにこの御代に
		理想的な親政政治が行われたのか、と不思議に思えてくる。

 

舗装・整備された石段が結構続く。天竜寺の御陵ほどではないが、ここの石段も相当長い。

 


		村上天皇は『後撰和歌集』撰修するなど文化事業にも力を注ぎ、父醍醐天皇の冥福を祈るために兄朱雀天皇が起工した、京都醍醐の
		醍醐寺は、村上天皇の天歴5年(951年)に完成した。また、皇朝十二銭の最後となる乾元大宝が鋳造されたのもこの帝の御代である。
		天皇は漢詩づくりを大層好み、途絶えていた詩集の編纂を命じるなど、音楽・文芸の才能にも優れたものを持っていたようだ。そも
		そも、第14皇子という順番からも、自分が天皇に即位するなどとは思っていなかったようで、若い頃から雅楽に親しんでいたとい
		う。琵琶を弾いた記録もある。自著日記も残っており、村上天皇御記(949〜967)として有名。半世紀後に作られた「枕草子」
		では、この村上天皇の御代を治世の理想像としている。  

 


		村上天皇は、康保4年(967)崩御し、山城国葛野郡田邑郷北長尾に葬られた。陵は長く所在を失なわれたままだったが、明治22年
		(1889)に、村上天皇陵とともに考定・修築された。現陵は、径24mの円墳をなし、墳丘のまわりには八角形に柵をめぐらせてい
		いる。藤原師輔は、娘安子の産んだ第2子憲平親王を生後間もなく皇太子とし、村上天皇亡き後は憲平親王が即位して冷泉天皇とな
		るが、この帝は病弱で神経の病を得、やがて藤原兼通・兼家の台頭を許して、政治の実権は藤原北家に移ることとなる。





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