<第24代 仁賢(にんけん)天皇> 異称: 億計尊(おけのみこと:日本書紀)、意祀王(おけのきみ:古事記)、 大脚(おおし)、大為(おおす)、嶋郎(しまのいらっこ) 生没年:允恭天皇38年 〜 仁賢天皇11年 50歳 在位期間 顕宗天皇3年(仁賢天皇元年) 〜 仁賢天皇11年 父: 市辺押磐皇子(履中天皇の子) 母: 蟻臣(ありのおみ)の娘、夷媛(はえひめ) 皇后: 春日大娘(かすがのおおいらつめ)皇女 皇妃: 和珥糖君娘 糠君娘(わにのあらきみのいらつめ) 皇子皇女: 高橋大娘(たかはしのおおいらつめ)皇女、朝嬬(あさづま)皇女、手白香(たしらか)皇女、 樟氷(くすひ)皇女、橘(たちばな)皇女、 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと:武烈天皇)、真稚(まわか)皇女 宮: 石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや:奈良県天理市石上町) 陵墓: 埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ:大阪府藤井寺市青山)
「顕宗天皇」の兄。「雄略天皇」の後を継いだのは「清寧天皇」だったが、清寧には子供がなかった。そこで「履中天皇」の孫で、 仁賢・顕宗の兄弟に白羽の矢がたったがこの兄弟は皇位を譲り合った。仁賢は先に皇太子になったが、皇位についたのは先に即位 した弟の顕宗の死後である。皇后は父の仇である雄略の娘だった。父は、第20代「安康天皇」の従兄弟の「市辺押磐(いちのべの おしは)皇子」だが、雄略は、安康天皇が市辺押磐皇子に皇位を譲るつもりなのを知って、天皇の没後市辺押磐皇子を殺害し自分 が即位する。仇の娘を皇后にしたのは、皇位継承の正当性を主張したものだろうと考えられている。
顕宗天皇の欄でも書いたが、皇位の順番を巡って仁賢・顕宗の兄弟は互いに皇位を譲り合って周辺をやきもきさせる。兄を差し置 いて先に弟が即位するなどできないと主張する顕宗に対して仁賢は、「度胸の据わっている方が天皇になるのはあたりまえだ。お 前の方が俺よりしっかりしている。いつまでも天皇位が不在だと国のために良くない。」と説得して顕宗を即位させる。
また、天皇となった顕宗が、父の敵である雄略天皇の墓を壊そうとし兄仁賢にその役目を言いつけるが、仁賢は御陵の土を少しだ け削り取って帰ってくる。問いただす顕宗に仁賢は、「いかに父の敵と言えども今日我々があるのは、雄略天皇のお子である清寧 天皇が我々を皇位継承者と認め立太子してくれたからではないか。父の敵とは言え、雄略天皇もまた大恩あるわれらが先祖である。 その人の墓を壊すなどと言うのは人道にもとる行為だ。」と返答する。顕宗は「まさしく兄上の言われるとおりです。」と納得す るのである。
この天皇の逸話も記紀に少ない。石上部(いそのかみべ)の舎人を置いたことや、日鷹吉子(ひたかのきし)を高麗に使わして、 手伎(てひと)らを召し抱えた事などが記録されている。
昔から「オケ山」「ボケ山」といった呼び名で古くから近在には親しまれてきた、6世紀中頃の築造と思われる前方後円墳。全長 百二十一m、江戸末期に学僧覚峰によって発見され、彼の研究に基づいて仁賢天皇陵と指定された。近鉄南大阪線「藤井寺駅」よ り近鉄バス羽曳野線「野々上」下車、南東へ5分ほどのところにある。
【意富祁王】仁賢天皇 (古事記) 袁祁王兄、意祁王、坐石上廣高宮、治天下也。 天皇娶大長谷若建天皇之御子、春日大郎女 次財郎女。次久須毘郎女。次手白髮郎女。次小長谷若雀命。次眞若王。 又娶丸邇日爪臣之女、糠若子郎女 生御子、春日山田郎女。 此天皇之御子并七柱。此之中、小長谷若雀命者、治天下也。 【意富祁王(おほけのきみ)】仁賢天皇 意祁(おけ)の王の兄、意富祁の王、石上(いそのかみ)の廣高(ひろたか)の宮に坐しまして天の下治しめしき。 天皇、大長谷の若建(わかたける)の天皇の御子、春日の大郎女を娶りて生みし御子は 高木の郎女。次に財(たから)の郎女。 次に久須毘(くすび)の郎女。次に手白髮(たしらか)の郎女。次に小長谷若雀(おはつせのわかさざき)の命。次に眞若(まわ か)の王。また丸邇(わに)の日爪(ひつめ)の臣の女(むすめ)、糠(ぬか)の若子の郎女を娶りて生みし御子は、春日の山田 の郎女。 此の天皇の御子は并せて七柱。此の中に小長谷の若雀の命は天の下治しめしき。