Music: Love me do

第17代 履中天皇
2000.SEP.5 堺市石津ケ丘町 百舌鳥耳原南陵






	<第17代履中(りちゅう)天皇>
	異称: 去来穂別天皇(いざほわけすめらみこと:日本書紀)、大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと:古事記)
	生没年: 年 〜 履中天皇6年 64歳
		在位期間  仁徳天皇87年+1年(履中元年) 〜 履中天皇6年
	父: 仁徳天皇 第1子
		母: 磐之媛命(いわのひめのみこと:葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘)
	皇后: 葦田宿禰(あしだのすくね)の娘、黒媛(くろひめ)
	皇妃: 幡梭(はたび)皇女
	皇子皇女: 市辺押磐(いちのべのおしは)皇子、御馬(みま)皇子、青海(あおみ)皇女、中磯(なかし)皇女
	宮: 磐余稚(若)桜宮(いわれのわかさくらのみや:奈良県櫻井市池之内)
	陵墓: 百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)
		(大阪府堺市石津ケ丘1 JR阪和線上野芝下車徒歩4分 )






	履中天皇は各地に国司を置き、官事を記録させてひろくその意向を伝えた。また、諸国の記録を残すために国史(くにひと)を置き、
	蔵職(くらのつかさ)を設立し、蔵部(くらひとべ)を置くことで、次第に複雑化していく国家財政を安定させようとした。また、
	忠臣の平群木菟宿禰、蘇我満智宿禰や、物部氏、葛城氏の各氏族にも国事を任せたとされる。

	この天皇は中国の「宗書」にある「倭の五王」のうちの、最初の「讃(さん)王」と言う説があるが「讃」は仁徳天皇という説もあ
	り定かではない。そもそも倭の五王の内、比較的その確度が高いのは「武」=「雄略天皇」くらいである。その根拠にしても、『古
	事記』に言う異名「大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)」と表記されている最後の字がどちらも「武」であるという理由と、年代が
	五王のうちで唯一「宗書」の記載と重なるからで、はっきりした証拠があるわけではないのだ。
	履中天皇を「讃」とする見方も、この「武」=「雄略天皇」から遡って、<履中・反正・允恭・安康・雄略>と、<譖・珍・済・興
	・武>とを対比させているだけである。それ故、「九州王朝説」や「朝鮮王朝説」などの珍説が出現する隙間ができてくる。

 


	堺市は、「仁徳・履中・反正」三陵を「百舌鳥三陵ゾーン」と呼んで散策路などを整備している。この陵は道路に面しており、すぐ
	側まで民家が密集している。民家の裏庭の先がすぐ陵の濠である。

 

 

 


	日本書紀(巻第十二)によれば、

	仁徳天皇の崩御後(仁徳87年)、去来穂別天皇は即位の前にかねてから想っていた葛城氏・羽田八代宿禰(はたやしろのすくね)
	の娘黒姫(くろひめ)を妃にすべく、異母弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を使者として派遣する。ところが住吉仲皇子
	は自分が皇太子だと偽って、黒姫を犯してしまう。そうとは知らぬ去来穂別天皇は翌日黒姫の元へ通い通じてしまったが、前日住
	吉仲皇子が黒姫の部屋に落としてきた鈴を見て、去来穂別天皇はいっさいを悟る。

 



	去来穂別天皇に気づかれた事を知った仲皇子は、先手を打って皇太子を葬ろうと決意する。皇太子の宮を取り囲んだ仲皇子反乱軍は、
	宮に火を放った。宮が火に包まれた時、去来穂別皇太子は深酒に飲まれて酩酊状態であった。そこで物部大前宿禰(もののべのおお
	まえのすくね)らは、太子を馬に乗せて避難させた。太子は河内の国埴生坂(はにゅうのさか)に至ってようやく目を覚まし、焼け
	落ちていく自分の館を見た太子は仰天し、大阪を経て大和へ向かおうとした。しかし飛鳥山の麓で、一人の少女がそっちは待ち伏せ
	があるから、当麻道(たぎまのみち)を選ぶように進められ忠告に従った。

 


	太子は方向を代え竜田山を越えようとしたが、実はこっちに追っ手が潜んでいた。太子は伏兵を放ってこれを取り押さえ、仲皇子に
	近い倭直吾子籠(やまとのあたいのあごこ)の陰謀を見抜きこれらを服従させた。埴土野の林間に一泊した主従は翌日二上山を越え
	大和に入り、石上(いそのかみ)の振神宮(ふるのかみのみや)にて大倭の豪族達に迎えられた。しかし疑心暗鬼となった太子は、
	心配して訪ねて来た同母弟の多遅比端歯別尊(たじひのみつはわけのみこと:後の反正天皇)をも疑い、信用してほしかったら仲皇
	子を殺してこいと命じる。

 


	端歯別尊は、兄の信用を得るためにもう一人の兄を殺すことを逡巡したが、結局は仲皇子の将兵だった刺領布(さしひれ)という隼
	人をそそのかし、ついに仲皇子は殺害される。乱後、太子目付役の平群木菟宿禰は、主君を裏切った刺領布を許さず死に追いやる。
	弟、多遅比端歯別尊も去来穂別天皇に服従を誓い、村合屯倉(むらあわせのみやけ)を賜わり、履中天皇2年皇太子となる。
	去来穂別天皇は橿原の若桜宮にて即位し、履中天皇となる。在位6年・64歳で崩御し、皇位は弟の多遅比端歯別尊が継いだ。




	墳丘の全長約 363m、後円部径 205m、高さ約 18.6m、前方部幅約 237m、高さ約 15.3mの、日本で3番目に大きい前方後円墳である。
	墳丘は3段築成で、西側のくびれ部には造出し(つくりだし)がある。葺石と埴輪があり一重の盾形周濠と堤(つつみ)が巡ってい
	る。後円部の北側に七観音古墳と寺山南山古墳が陪塚の名残をとどめている。5世紀前半頃の築造と考えられ、大山古墳の南西に位
	置している。

 


	上空から見た履中陵。もともとあったと思われる二重目の濠の痕が、以前は西側にあったらしいが、現在は埋められて全く見えない。
	1重の濠しかないように見える。陪塚も以前は10基ほどあったとされるが、現在「七観音古墳」と「寺山南山古墳」が残るだけで
	ある。江戸時代の記録によれば、後円部中央に大きな窪みがあったそうなので昔からよく盗掘を受けていたようだ。



	デカイ。仁徳天皇陵も大きいがこの陵も結構デカイ。善政に感謝した庶民が、相当築造に協力したのかなと思えてくる。
	上方に大仙公園・仁徳天皇陵が見えている。出土した土器の編年等により、古墳の形状は大山古墳(仁徳天皇陵)よりも古いという
	見方もあり、そうなると、父の墓より息子の墓の方が古いという矛盾した事になってしまう。この古墳が仁徳天皇陵だと言う説は、
	この見方に基づいている。履中陵と仁徳陵が入れ替わるのか、あるいはごそっと順番が狂うのか、今後の新検証次第であるが、宮内
	庁が内部調査に同意しない限りそれは永遠の謎と言える。考古学上は「ミサンザイ古墳」と呼ばれる事が多い。












	【伊邪本和氣王】履中天皇(古事記)

	伊邪本和氣王、坐伊波禮之若櫻宮、治天下也。此天皇、娶葛城之曾	都毘古之子、葦田宿禰之女、名黒比賣命。生御子、市邊之忍齒王。
	次、御馬王。次妹、青海郎女、亦名飯豐郎女。【三柱】
	本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒字良宜而大御寢也。
	爾其弟墨江中王、欲取天皇以火著大殿。於是倭漢直之祖、阿知直盜出而、
	乘御馬令幸於倭。故,到于多遲比野而寤、詔此間者何處。爾阿知直白、墨江中王、火著大殿。故、率逃於倭。爾天皇歌曰、

	多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆
	多都碁母母 母知弖許麻志母能
	泥牟登斯理勢婆

	到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天星亦歌曰、

	波邇布邪迦 和賀多知美禮婆
	迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良
	都麻賀伊幣能阿多理
			故、到幸大坂山口之時、遇一女人。其女人白之、持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、迴應越幸。爾天皇歌曰、

	於富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁
	美知斗閇婆 多陀邇波能良受
	當藝麻知袁能流

	故、上幸坐石上神宮也。
	於是其伊呂弟水齒別命參赴令謁。爾天皇令詔、吾疑汝命若與墨江中王同心乎。故、不相言。答白、僕者無穢邪心。亦不同墨江中王。
	亦令詔、然者今還下而、殺墨江中王而上來。彼時吾必相言。故、即還下難波、欺所近習墨江中王之隼人、名曾婆加理云、若汝從吾言
	者、吾爲天皇、汝作大臣、治天下那何。曾婆訶理答白隨命。爾多祿給其隼人曰、然者殺汝王也。於是曾婆訶理、竊伺己王入厠、以矛
	刺而殺也。故、率曾婆訶理、上幸於倭之時、到大坂山口以爲、曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然不賽其功、可謂無信。
	既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身。是以詔曾婆訶理、今日留此間而、先給大臣位、明日上幸、留其山口、即造假宮、忽
	爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。爾詔其隼人、今日與大臣飮同盞酒、共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。
	於是王子先飮、隼人後飮。故、其隼人飮時、大鋺覆面。爾取出置席下之劍、斬其隼人之頚、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上
	到于倭詔之、今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮、故、號其地謂遠飛鳥也。故、參出石上神宮、令奏天皇、政既平訖參上侍
	之。爾召入而相語也。天皇、於是以阿知直、始任藏官、亦給粮地。
	亦此御世、於若櫻部臣等、賜若櫻部名、又比賣陀君等、賜姓謂比賣陀之君也。亦定伊波禮部也。天皇之御年、陸拾肆歳。【壬申年正
	月三日崩。】御陵在毛受也



	【伊邪本和氣王(いざほわけのみこ)】履中天皇

	伊弉本和氣の王(みこ)、伊波禮(いはれ)の若櫻の宮に坐しまして、天の下治しめしき。
	此の天皇、葛城の曾都毘古(そつびこ)の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の女、名はK比賣の命を娶りて生みし御子は、市邊之忍
	齒(いちのへのおしは)の王(みこ)、次に御馬(みま)の王、次に妹(いも)青海郎女(あおうみのいらつめ)またの名は飯豐郎
	女(いいとよのいらつめ)【三柱】。
	本、難波の宮に坐しましき時に、大嘗(おおにえ)に坐しまして豐明(とよのあかり)を爲し時に、大御酒に宇良宜(うらげ)て大
	御寢(おおみね)しき。爾くして其の弟(おと)、墨江中王(すみのえのなかつみこ)、天皇を取らんと欲いて火を大殿に著けき。
	ここに倭(やまと)の漢(あや)の直(あたい)が祖(おや)、阿知(あち)の直、盜み出して御馬(みま)に乘せ倭に幸さしめき。
	故、多遲比野(たぢひの)に到りて寤(さ)めて詔らさく、「此間(ここ)は何處ぞ」。爾くして阿知の直、白さく、「墨江中王
	(すみえのなかつみこ)、火を大殿に著けき。 故、率(い)て倭(やまと)に逃ぐるぞ。」爾くして、天皇、歌いて曰く、

	多(た)遲(じ)比(ひ)怒(の)邇(に)
	泥(ね)牟(む)登(と)斯(し)理(り)勢(せ)婆(ば)
	多(た)都(つ)碁(ご)母(も)母(も)
				母(も)知(ち)弖(て)許(こ)麻(ま)志(し)母(も)能(の)
	泥(ね)牟(む)登(と)斯(し)理(り)勢(せ)婆(ば)

	多遲比野に
	寝むと知りせば
	立薦も
	持ちて来ましも
	寝むと知りせば

	波邇賦坂(はにふざか)に到りて、難波の宮を望み見るに、其の火、猶お炳(あか)し。爾くして、天皇、また歌いて曰く,

	波(は)邇(に)布(ふ)邪(ざ)迦(か)
	和(わ)賀(が)多(た)知(ち)美(み)禮(れ)婆(ば)
	迦(か)藝(ぎ)漏(ろ)肥(ひ)能(の)
	毛(も)由(ゆ)流(る)伊(い)幣(へ)牟(む)良(ら)
	都(つ)麻(ま)賀(が)伊(い)幣(へ)能(の)阿(あ)多(た)理(り)

				波邇賦坂
	我が立ち見れば
	かぎろひの
	燃ゆる家群
	妻が家の辺

	故、大坂の山口に到り幸(いでま)しし時に、一の女人に遇いき。 其の女人の白さく、「兵を持てる人等、多(あま)た茲(こ)
	の山を塞(ふさ)げり。當岐麻道(たぎまち)より迴(めぐ)りて越え幸(いでま)すべし」。爾くして、天皇、歌いて曰く、

			於(お)富(ほ)佐(さ)迦(か)邇(に)
	阿(あ)布(ふ)夜(や)袁(を)登(と)賣(め)袁(を)
	美(み)知(ち)斗(と)閇(へ)婆(ば)
	多(た)陀(だ)邇(に)波(は)能(の)良(ら)受(ず)
	當(た)藝(ぎ)麻(ま)知(ち)袁(を)能(の)流(る)

	大坂に
	遇うや娘子を
	道問へば
	直には告らず
	當岐麻道を告る

	故、上り幸して石上の~の宮に坐しましき。ここに其の伊呂弟(いろど)、水齒別(みずはわけ)の命、參い赴きて謁(もう)さし
	めき。爾くして天皇、詔らさしめく、「吾、汝命、若し墨江中王(すみえのなかつみこ)と同じ心ならんかと疑えり。故、相言わじ」。
	答えて白さく、「僕(やつかれ)は穢(きたな)き邪(あ)しき心無し。また墨江中王と同じくあらず」。また詔らさしめき、「然
	らば今還り下りて墨江中王を殺して上り來よ。彼の時に吾必ず相言わん」。
	故、即ち難波に還り下りて墨江中王(すみえのなかつみこ)に近く習えたる隼人、名は曾婆加理(そばかり)を欺きて云いしく、
	「若し汝、吾が言に從わば、吾は天皇と爲し、汝は大臣(おおおみ)と作(な)して、天の下治さんは那何(いか)に」。 曾婆訶
	理答えて白さく、「命(みことのり)の隨(まにま)に」。爾くして多(あま)たの祿(たまいもの)を其の隼人に給いて曰く、
	「然らば汝が王を殺せ」。ここに曾婆訶理、竊(ひそ)かに己が王の厠に入るを伺いて、矛を以ちて刺して殺しき。
	故、曾婆訶理を率て倭に上り幸す時に、大坂の山口に到りて以爲(おも)いしく、「曾婆訶理は吾が爲に大き功(いさお)有りと雖
	ども、既に己が君を殺しつること、是、義(ことわり)ならず。然れども其の功を賽(むく)いずは信(まこと)無しと謂いつべし。
	既に其の信(まこと)を行わば、還りて其の情(こころ)に惶(おそ)りむ。故、其の功(いさお)を報ゆと雖ども、其の正身(た
	だみ)を滅(ほろぼ)さん」。是を以ちて曾婆訶理に詔らさく、「今日は此間(ここ)に留りて、先ず大臣の位を給りて、明日上り
	幸(いでま)さん」。其の山口に留りて、即ち假宮を造りて忽ちに豐樂(とよのあかり)を爲て、乃ち其の隼人に大臣の位を賜り、
	百官(もものつかさ)に拜(おろが)ましめき。隼人、歡喜(よろこ)びて、志を遂げつと以爲(おも)いき。爾くして其の隼人に
	詔らさく、「今日、大臣と同じ盞(さかづき)の酒を飮まん」。共に飮む時に、面を隱す大鋺(おおまり)に其の進むる酒を盛りき。
	ここに、王子、先ず飮み、隼人、後に飮みき。故、其の隼人の飮める時に、大鋺(おおまり)、面(おもて)を覆いき。 爾くして、
	席(むしろ)の下に置ける劍を取り出して、其の隼人が頚を斬りて、乃ち明日に上り幸しき。故、其の地を號けて近つ飛鳥と謂う。
	倭(やまと)に上り到りて詔らさく、「今日は此間(ここ)に留りて祓禊(みそぎ)爲て、明日參い出でて~の宮を拜(おろが)ま
	ん」。故、其の地を號けて遠つ飛鳥と謂う。故、石上(いそのかみ)の~の宮に參い出でて、天皇に奏(もう)さしめしく、「政
	(まつりごと)は既に平らげ訖(おわ)りて參い上りて侍り」。爾くして、召し入れて相語りき。
	天皇、ここに阿知の直を以ちて始めて藏の官(つかさ)に任(ま)け、また粮地(たどころ)を給いき。また此の御世に若櫻部(わ
	かさくらべ)の臣(おみ)等(たち)に若櫻部の名を賜い、また比賣陀(ひめだ)の君に姓(かばね)を賜いて比賣陀の君と謂いき。
	また伊波禮部(いはれべ)を定めき。天皇の御年は陸拾肆歳(むとせあまりよとせ)【壬申(みづのえさる)の年の正月(むつき)
	三日に崩(かむざ)りき】。御陵(みささぎ)は毛受(もず)に在り。




邪馬台国大研究・ホームページ /天皇陵巡り/ 履中天皇