Music: Night

第52代 嵯峨天皇
平成14年6月8日 嵯峨山上陵



 

				【第52代 嵯峨(さが)天皇】
				別名: 神野(かみの)、賀美能親王(かみののみこ)
				生没年:延暦5年(786) 〜 承和9年(842)(57歳)  
				在位: 大同4年(809) 〜 弘仁14年(823)
				父:  桓武天皇  第2皇子
				母:  藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ) 
				皇后: 橘嘉智子(たちばなのかちこ)
				皇妃: 高津内親王、多治比高子、藤原産子、藤原緒夏、大原浄子、百済貴命、山田近子、
				    飯高宅刀自、秋篠高子、交野女王、百済慶命、笠継子、大原全子、高階河子、文室文子、
				    広井氏、布勢氏、当麻氏、上毛野氏、安倍楊津、粟田氏、惟良氏、長岡氏、田中氏、
				    紀氏、内蔵氏、甘南備氏、橘春子  
				皇子女:業良親王、正良親王(仁明天皇)、基良親王、秀良親王、忠良親王、業子内親王、
				    仁子内親王、有智子内親王(賀茂斎院)、正子内親王(淳和后)、俊子内親王、繁子内親王、
				    秀子内親王、芳子内親王、宗子内親王、純子内親王、済子内親王、基子内親王、
				    源信(正二位左大臣)、源貞姫、源潔姫(藤原良房室)、源弘(正三位大納言)、
				    源常(正二位左大臣)、淳王、
					<以下もすべて源>
				    全姫、寛、明、善姫、定(正三位大納言)、鎮、生、融、安、勤、勝、啓、更姫、声姫、良姫、
				    盈姫、端姫、吾姫、年姫、賢、澄、清、継、若姫、神姫、容姫、密姫、
				宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				陵:  嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ:京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町)


 
御陵はすぐ上に在りそうな雰囲気だったのだが、ちょっと嫌な予感もした。その予感は当たっていた。


		桓武天皇の第二皇子で、平城天皇の同母弟。幼くして聡敏で学問を好み、周りに霊気立ちこめ、自ずから天子としての器量があり、漢
		詩や書道に興味をもち、長じて経書や史書を博覧したと言われる。平城天皇の即位とともに皇太子(弟)となり、大同4年、病に伏し
		た平城天皇に譲られて即位した。

 
延々と続いていそうな階段が見えたとき、こりゃ相当上かもしれんぞと覚悟した。


		健康が回復して政治に干渉するようになった平城上皇と対立、重祚を望んで挙兵の準備をしていた平城上皇の機先を制してそれを阻止。
		上皇を仏門に出家させてこれを鎮定(薬子の乱)。平城上皇の子高崗親王の皇太子を廃して、異母弟の大伴親王(淳和天皇:母は藤原
		旅子)を皇太子に立てる。父桓武帝の政策を継承し、蔵人所や検非違使を新設するなど、国制の改革に努めた。また文人の積極的登用、
		内宴を始めとする年中行事創始など、宮廷に新風を送り込んだ。帝は多くの皇妃を寵愛し、生まれた皇子女を臣籍に下し源朝臣(みな
		もとのあそみ)の氏姓を与えた。橘嘉智子(奈良麻呂の孫)を皇后に立て、弘仁10年(819)『続日本紀』に次ぐ史書の編纂を命じた。


中腹から見た嵯峨野の平野。中央に大沢の池も見える。


		弘仁14年(823)、大伴親王に譲位、自らは上皇に退いた。以後は冷然院に住み、政務への介入はしなかったが隠然たる勢力を保持し
		ていた。弘仁、天長、承和にわたる30年間は政局も安定し、平安文化が花開いた。空海や小野篁(たかむら)ら多くの逸材が輩出し、
		律令制を整備するため「弘仁格(きゃく)」「弘仁式」が編纂された。帝はその偉大な権威によって平安初期の政治を安定させたが、
		天長10年(833)、淳和天皇が譲位すると、嵯峨院に戻り、承和9年(842)7月、同所にて崩御した。57歳。

		天皇が崩御すると政局は俄に流動化し、やがて藤原北家の台頭をもたらす。

 
10分ほど登っただろうか、やっと御陵が見えてきたときには正直ホッとした。この階段は、以前立命館裏の朱山に登った時と
同じ位シンどい。御陵は山頂に作られていた。「山上陵」と名付けられるはずだ。帝は愛した嵯峨野を見渡せる所に眠っている。


		嵯峨天皇の葬送は遺詔により徹底した薄葬となった。既に元暦元年(1184)頃には、陵の所在は不明になっていたようである。嵯峨の
		清涼寺や二尊院にある石塔を陵に比定する説もあったが、のち京都市右京区北嵯峨朝原山町の現在陵が比定された。

 


		世に「三筆」として称えられる書家の一人で、詩人(漢詩)としても名高く、「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」などに多くの詩を
		残す。箏・笛・和琴などの雅楽にも巧みであったという。最澄・空海との交流も有名である。この天皇が住んだことから嵯峨野と呼ば
		れるようになった、京都北部の静かな地に立つ天皇の別邸(現大覚寺)には、空海や最澄らを初めとする多数の文化人が出入りしてい
		た。皇后の従兄である橘逸勢・空海・嵯峨天皇の三人はその中でも特に書がうまく、三筆と呼ばれた。




		<薬子の変(くすこのへん)> 弘仁元年(810)	平安時代初期の平城天皇と嵯峨天皇の抗争事件。

		平城京から長岡京への遷都の責任者藤原 種継(ふじわらのたねつぐ)は、建設が軌道に乗り始めたころ何者かによって暗殺される。
		長岡京建設は続行されたが10年で放棄され、平安京が建設されることとなった。 種継の子、仲成と薬子は、心血注いだ父の偉業を
		簡単に放棄した桓武天皇に不満を覚えていたといわれる。この時代、藤原家は式家の時代である。元々式家の百川が吉備真備らの意
		見を抑えて「光仁天皇」を誕生させたため、この乱後で北家が台頭してくるまでの間、式家が政権に強い影響力を与えていたし、そ
		の式家内部でも抗争は行われていた。

			                        藤原宇合(式家)
			                          |
			   +−−−−−−−−−−−−−−−−−−+−−−+−−−−−−+
			   |                  |          |
			  藤原百川  光仁天皇=高野新笠    藤原良継       藤原清成
			   |    49   |         |          |
			  +++       桓50        |          |
			  | 旅子======武         |          |
			 帯子   |     天========藤原乙牟漏       |
			(平城妃) |藤原吉子=皇      |            藤原種継
			      |(南家)|       |             |
			      |   伊豫親王  +−−+−−−−−−+   +−−+−+
			   53  |       52 |       51 |   |    |
			   淳和天皇  橘嘉智子=嵯峨天皇 伊勢継子=平城天皇=藤原薬子 藤原仲成
		 	            |         |
			           54仁明天皇     高岳親王(真如)


「写真提供:(株)柳井」


		藤原薬子は、藤原縄主(ふじわらのただぬし)との間に設けた娘が、安殿親王(あとしんのう:平城天皇)の後宮に入ったのを期に、
		娘に付き添って入内するが、平城帝は娘よりその母を寵愛するようになり、薬子の発言力も増していく。しかし、それが桓武天皇の
		勘気に触れ桓武天皇は薬子を追放処分とした。桓武天皇と安殿親王(平城天皇)はあまりうまくいっておらず、薬子追放によって二
		人の確執が深まったと言われる。その後、桓武天皇が没し、安殿親王が平城天皇として即位すると、再び薬子を招きよせた。平城天
		皇は15歳の頃に実の母を亡くし、7歳ほど上でしかない薬子に母と女性の魅力に引かれていたと言われている。今で言うマザコン
		である。
 


		大同4年(809)、平城天皇が病のために弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位し、自らは上皇となって療養のため生まれ故郷である平城
		京へと移るが、病が癒えてくると再び皇位に執着を見せ始める。薬子の兄、藤原仲成を参議にし、薬子とともにまるで平城京が都で
		あるかのように振る舞うようになり、世に「二所朝廷」と呼ばれるようになった。弘仁元年(810)9月6日、突如上皇は平安京貴族
		に「平城京に遷都する」との詔を発して、事態は大動乱へ発展しそうな様相となった。

		嵯峨天皇は素早くこれに対応し、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と藤原 冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)に「造平城宮使(上
		皇の宮殿を建設する役目)」に任命して平城京に送り、上皇の監視役とさせた。さらに、嵯峨天皇は、参議として平安京に入り遷都
		を画策していた藤原仲成を逮捕して佐渡権守(さどごんのかみ)に降格させると、薬子を追放処分とした。仲成は翌日処刑された。
		嵯峨天皇の思いがけない行動に、上皇は薬子と共に平城京を出て東国で再起を図ろうとしたが、坂上田村麻呂によって阻まれ失敗し、
		平城京に戻って剃髪、薬子は自殺した。

		ここに「壬申の乱」以来かと思われた皇室の大混乱は終息した。平安京はこの後数百年間日本の都として繁栄を極め、また仲成・薬
		子の血筋である「式家」は衰え、この乱で活躍した藤原冬嗣の「北家」台頭のきっかけとなり、冬嗣の息子・藤原良房によってそれ
		は頂点に達する事になる。
 

邪馬台国大研究・ホームページ /天皇陵巡り/ 嵯峨天皇