【第35代皇極(こうぎょく)天皇/第37代斉明(さいめい)天皇】 異名: 宝皇女(たからひめ)、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 生没年: 推古天皇2年(594?)〜 斉明天皇7年(661)(68歳) 在位: 皇極天皇元年(642) 〜 皇極天皇4年(645)/ 斉明元年(655)〜 斉明天皇7年(661) 父: 敏達天皇の孫・茅渟王(ちぬおう/ちぬのおおきみ) 母: 吉備姫女王(きびつひめ) 夫: 舒明天皇 皇妃: 皇女子: 葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇) 宮居: 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村) 御陵: 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ:奈良県高市郡高取町)
同じく孫の建王(たけるのみこ)と一緒に葬られている。斉明天皇4年(658)の5月に、建王は8才で薨じている。特にかわいがっていた 孫の死に、天皇は号泣したと「日本書記」にある。また自分が死んだら必ず建王と一緒に葬るようにと命じてもいる。孫を偲んで歌を 詠み、時々その歌を口ずさんでは泣いていたと書かれているし、和歌山の白浜温泉に行幸した際にも孫を思いだしては歌を詠んで、 この歌を後世にまで語り継ぐようにと命じているから、相当かわいがっていた孫だったのだろう。
大化改新の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。日本書紀にはこの女帝と入鹿暗殺を結び付ける記事は何もない。大化改新の 直接の源因となった「乙巳の変」について考えてみると、皇極天皇4年6月12日は三韓朝貢の日という事になっていた。蘇我入鹿は そのため宮中に赴いたのである。入鹿周辺は、宮廷内に不穏な空気があるのを察していたとも言われる。しかし三韓朝貢となれば参内 せざるを得ない。勿論、三韓朝貢などは虚構である。当時、唐の太宗は高句麗に派兵し朝鮮半島は緊迫状態にあったのに、揃って我が 国へ朝貢してくる事などあり得ない。又、政治の最高権力者の位置にいた入鹿がそれを知らないわけもない。しかし、「天皇の命令」 となれば入鹿も受けざるを得ないだろうし、皇極天皇抜きで、中大兄皇子と鎌足が勝手にそのような虚構を設定できるはずがないと言 うのだ。 つまり、皇極天皇は「乙巳の変」を事前に知っていたというわけだ。そしてそれを容認したという事になる。 大化改新の過程においても、孝徳天皇を一人難波宮に置き去りにしたのは皇極天皇の発案ではないかと言う説もある。「乙巳の変」後も、 孝徳天皇崩御後も中大兄皇子は即位しない。一般には、皇太子のままで居た方が都合がいいと判断したからだと言われているが、実は皇極 (斉明)天皇の力が強く、中大兄は即位したくても出来なかった可能性もあると言う。 斬りつけられた入鹿は、斬りつけた中大兄ではなく皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかける。女帝は「何も知らない、 一体これは何事ぞ」と答えるが、入鹿が女帝に向かって問いただす事がそもそも女帝がその首謀者と知っていたからだというのである。 又、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったとも言う。
朝倉の地での葬儀にあたって、入鹿の怨霊が山の端から葬列を眺めていたとか、陣営で鬼火が舞ったとかの伝説が残されている。 福岡県朝倉郡恵蘇宿(えそのしゅく)にいくと、「御陵山」と呼ばれる古墳が斉明天皇の墓として残されており、恵蘇宮八幡宮がこれを 護っている。しかし、勿論発掘はされていないので確証はない。「橘広庭宮」跡についても、今まで九州の学者を中心として何度か調査 が行われたが、未だ判明していない。地元には推定地に「橘広庭宮跡」の石碑が建っている。
夏、帰郷した折り、朝倉の「斉明天皇陵」を訪れた。歴史に興味がある同い年のいとこ夫婦と、史学科卒のその兄夫婦(当然彼もいとこ である。)と一緒に、蝉時雨の中苔むす円墳を見学した。筑後川を眼下に見下ろす高い山の上に御陵はある。地元では古くから「斉明天皇陵」 と言い伝えられているが、発掘されていないのでその真偽は定かでない。しかし、文献と伝承から考察するに、ほぼ間違いないものと思われる。
百済の救済に西へ向かった斉明天皇の一行には、中大兄皇子、大海女皇子、太田皇女、鵜野讃良皇女(うののさらさ:後天武天皇 皇后となり、その後持統天皇となる。)らが参加していた。瀬戸内海を西進し、博多を経由して朝倉の行宮・橘広庭宮へ入ったが、 ここにはわずか75日間の滞在だった。ここの木を勝手に伐って宮の造営にあてたため朝倉の神の怒りに触れ、雷神が建物を壊し、 宮殿の中にも鬼火が出没し、付近に病気が蔓延しついに天皇もこの地で崩御する。 朝倉町では、平成3年度から平成5年度にかけて、その代表的な史跡を公園化し、斉明天皇がまつられている恵蘇八幡宮の裏には、 中大兄皇子が喪に服したと言われている木の丸殿跡があり、この一帯は木の丸史跡公園として整備されている。 仮宮が置かれていたとされる橘広庭宮跡一帯(推定)は、橘広庭史跡公園に整備。また、宮地嶽山頂と湯の隈古墳を遊歩道で結ん だ一帯は、宮地嶽史跡公園として整備している。宮地嶽は、斉明天皇と中大兄皇子が山頂に神々をまつり、戦勝を祈願したと伝え られる場所である。