Music: Fool on the hill

第56代 清和天皇
平成14年6月8日 水尾山陵






			【第56代 清和(せいわ)天皇】
			別名:  惟仁(これひと)
			生没年:嘉祥3年(850) 〜 元慶4年(880)(31歳)
			在位: 天安2年(858) 〜 貞観18年(876)
			父:  文徳天皇  第4子
			母:  藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)
			皇后:  藤原高子(ふじわらのたかいこ)
			皇妃: 藤原佳珠子、藤原多美子、嘉子女王、兼子女王、忠子女王、平寛子、源済子、
			    源厳子、藤原頼子、源喧子、源貞子、源宣子、藤原氏、在原氏、佐伯氏、橘氏、
			    王氏、賀茂氏、大野氏、隆子女王  
			皇子女:貞明親王(陽成天皇)、貞固親王、貞元親王、貞保親王、貞平親王、貞純親王、
			    貞辰親王、貞数親王、貞真親王、貞頼親王、孟子内親王、包子内親王、敦子内親王、
			    識子内親王、長猷、長淵、長鑒、載子、長頼  
			宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
			陵:  水尾山陵(みずのおやまのみささぎ:京都市右京区嵯峨水尾清和)




	今まで訪問した天皇陵の中でも、一、二を争う鄙所にある。仁和寺の脇を登っていく「宇多天皇陵」、立命館裏の朱山にある竜安寺の
	「五天皇陵(一条、後朱雀、後冷泉、後三条、堀河)」といい勝負であるが、あっちは交通機関でわりと近くまで行くことができる。
	しかしここは、嵐山から亀岡へ走っている「保津川トロッコ鉄道」(山陰本線)しかない。この鉄道の「トロッコ保津峡駅」が一番近
	い公共交通機関の駅だ。上の写真左端に見えている建物が駅である。なんとこの保津峡駅のホームは、山と山を結ぶ鉄橋の上にある。
	真下はもろに保津川の流れで、高所恐怖症の私としては、ちょっと行きたくない駅である。ここから水尾の集落まで、徒歩だとどの位
	かかるのだろうか。30分はゆうにかかるだろう。今回は時間がなく、嵐山からタクシーを使ったのでよくわからないが、30分では
	着かないかもしれない。ここからだいぶ下流の集落から嵐山の渡月橋までが、「保津川下り」である。
	【後で調べたら水尾の集落まで保津峡駅から約4km、徒歩1時間。1時間40分という案内もあった。】

 
	保津峡駅から水尾の集落へ入る途中に、明智光秀が本能寺の変で織田信長を討つにあたり愛宕山に詣で、その武運を祈願した時に通っ
	た道と伝えられている、「明智越え」がある。さらに街道をゆくと、山に囲まれた水尾の里に出る。柚子の里と呼ばれるだけあって、
	どこを向いても柚子の木が目に入る。季節には、山の緑と柚子の黄色のコントラストが美しい、のどかな里である。 

	水尾(みずお)の集落に入ってしばらくしたら、道路脇に清和天皇陵への立て札があった。畑の中へ入っていく細い道が見えたので、
	タクシーに待ってもらって御陵をめざす。すぐそこかなと思っていたらまたまたエライ目にあった。
		
 


	「珍しく、道から下っていく所にある御陵だなぁ」、「こんな低いところにある天皇陵なんて初めてじゃなかろうか。」などと考えな
	がら進んでいくと、やがて小さな小川に出た。ここで初めて大いなる誤解に気づいた。道が下がっていたのはただ谷へ降りていただけ
	なのだ。この小川を超えて、また延々と登りが続くのだった。小川にブチ当たった時にそれを予感したがまさしくその通りだった。

 


	水尾は愛宕山の西麓にあって、山城と丹波の両国を結ぶ要衝に当り昔から開けていたようで、東の八瀬大原に対し、西の清浄優水境と
	して、宮廷人たちにも、よく知られていたようである。奈良時代の宝亀3年、光仁天皇は奈良から、また延暦4年には、桓武天皇も長
	岡京から行幸した記録がある。勿論有名なのは清和天皇だ。譲位後はこの里で過ごしている。水尾の女性が身につける、榛の木染の三
	巾の赤前垂れは、天皇に仕えた女官の緋の袴の遺風であるとも伝えられている。

 




	小山の中腹から見た水尾の集落。下右の写真、真ん中あたりでタクシーに待って貰っていた。運転手さんに申し訳ないなぁと思いなが
	ら登って行く。水尾は耕地は僅かであるためか果樹の生産が繁んであり、現在は柚子、梅が特産である。近年柚子風呂も有名になり、
	都を離れて山峡に憩う観光客も多く訪れるようになった。柚子風呂を楽しみ、鶏のスキヤキ鍋料理を出してくれる民宿も何軒かあるそ
	うだ。(運転手さんの話。)

 


	江戸初期には80戸以上あったらしい水尾の人口は、現在40戸たらずとなっているが、その家々の大半が「松尾」姓なのだそうだ。
	水尾に古くから住む人の姓は松尾、竹花、田中、辻、村上に限られ、他の姓の人は後から水尾に移り住んだ人達だそうだ。中でも松尾
	姓の人々は清和天皇に仕え、松尾村から移り住んだ人々の子孫だと伝えられている。




	当時最大の実力者藤原良房の孫にあたる。嘉祥3年(850)3月、良房の娘、明子(めいし)を母として、良房の館一条第で誕生した。
	文徳天皇は惟喬(これたか)親王を押したが、良房の意志によって、生後9ヶ月にして異母諸兄を飛び越えて立太子した。文徳天皇が
	没すると9歳にして即位し清和天皇となり、良房は人臣として初の摂政となった。






	天皇の治世中には、貞観8年(866)の応天門炎上を契機に疑獄事件が発生した。この応天門の変では、当初左大臣の源信(まこと)が
	放火の犯人とされた。しかし、まもなく同年8月備中権史生(ごんのしょう)、大宅鷹取(おおやけのたかとり)が大納言伴善男(よ
	しお)を告発し、事態は急転した。そこへ伴善男の家来であった生江恒山(いくえのつねやま)らが大宅鷹取の娘を殺害するといった
	事件が起こり、かえって善男の嫌疑は深まった。
	そして取り調べの中で恒山らが供述を始め、善男とその子、中庸(なかつね)が源信を陥れる目的で放火した事が判明した。主犯であ
	る伴善男、中庸ら5人が犯行を認めたため大逆罪に問われて、善男は資産を没収された上伊豆に流されてその地で没した。これにより、
	古代からの名門一族「大伴氏」の命運はつきた。
		
 


	事件には複雑な政治的背景があった。もともと、血統を誇る源信ら嵯峨源氏と、光仁天皇の頃に台頭してきた伴善男ら文人派との間に
	は抜きがたい対立があったが、時の権力者藤原良房も文人派の排除を狙っていたとされる。事件の最中、良房は人臣初の摂政となり、
	跡継ぎの基経(もとつね)を中納言に抜擢するとともに、姪の高子(こうし)を入内させ、着々と不動の地位を確立していった。




	この帝の治世は、良房を中心とした藤原北家により摂関政治が確立されてゆく所に特徴がある。清和天皇は多くの女性を愛した事でも
	有名だが、そこに生まれた多くの皇子女たちは臣籍に下り、源朝臣姓を与えられて「清和源氏」となった。

	良房没後、良房の養嗣子基経が実権を握り、基経の妹である皇后高子(後に皇太后)との間にもうけた第一皇子、貞明親王(陽成天皇)
	に譲位して自らは仏門に入った。27歳で突如退位し、余生を山中における仏教修行に明け暮れた。陽成天皇に譲位後は、水尾に居住
	し、この地が気に入って、「ここを終焉の地と定む」と遺詔を残した。




	元慶4年(880)、京都市左京区岡崎にあった円覚寺(現在廃寺)で31歳にて没し、粟田山で火葬後、水尾山に葬られた。「水尾山陵」
	に埋葬されたため水尾天皇とも呼ばれる。例によって御陵は後世その所在を失う。その所在についてはいくつかの説があったが、御廟
	山と呼ばれていた谷を登った丘上の茶臼山という塚が比定された。現陵は径約32m、高さ約6mの円墳である。江戸時代、文久3年
	(1864)に修築された。

 


	<清和源氏>
	今日、清和源氏は、武門の棟梁として有名であるが、この一門の出自は実は清和源氏ではなく陽成源氏だとする説が定説となっている。
	それを証明する文書が、京都府八幡市の男山「石清水八幡宮」に伝わっている。ちなみに我が家はこの男山に7年住んでいた。子供達
	がまだ小さかったので、よく手を引いてこの八幡宮に遊びにきたものだ。境内の桜が見事で、花見の季節は人でごった返していた。
	清和源氏は、前九年・後三年の役で知られる源頼義・義家父子をはじめ、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏など清
	和源氏と称される武家は枚挙にいとまがない。江戸幕府を開いた徳川家康も清和源氏を称している。(家康は自称源氏であり、源氏の
	一族から系図を買い、適当に作ったというのが定説。)源氏出身でなければ、征夷大将軍にはなれなかったのだ。平氏出身の北条氏、
	自称平氏の織田信長らは最後まで征夷大将軍にはなれなかったし、摂関家に養子になった豊臣秀吉は実力がありながら、その出自が源
	氏とはとうてい認められなかったので、同じく征夷大将軍になっていない。(しかし秀吉は執拗に朝廷に迫ったので、仕方なく「太閤
	関白 」という新しい称号を授けられた。)

	清和源氏は実は、陽成天皇の子孫が正しいとする説の根拠となったのが、経基の孫にあたる源頼信が、永承元年(1046)石清水八幡宮
	に納めた告文である。同文書は八幡宮祠官田中家に、900年にわたって伝存されてきたものであった。以下、要点は、

	敬んで先祖ノ本系を明め奉れば、大菩薩の聖体は、恭けなくも某の二十二世の氏祖なり。先人は新発意、その先は経基、その先は元平
	親王、その先は雨陽成天皇、その先は清和天皇(---中略---)いわゆる曾祖の陽成天皇は、権現ノ十八代の孫なり。頼信は彼ノ天皇の
	四世の孫なり。  

	なぜ、陽成天皇の子孫であるべきものが清和天皇の子孫と称されるようになったのだろうか。これは、陽成天皇が、「悪君の極」とか
	「亡国ノ王」などと呼ばれる狂気の天皇であって、その子孫と称することをはばかり、一代繰り上げて清和天皇に源を発する形にして
	清和源氏を称したとの見方が有力である。

 


	清和天皇社
	・・(略)・・。清和は、端正な容姿と、聡明な頭脳を持ち、しかも雅量があって寡黙だったといわれている。ただ、体が弱かった。
	出家して素真と号し、本気で修行僧になり、山野を跋渉した。ついに水尾という「絶壑の地」にきて、「ここで生涯を終えたい」と、
	いった。里人たちは、自分たちの里の美しさを見つけてくれたこの貴人に感謝し、里の力でこの太上天皇のために山寺を建てようとし、
	造営にとりかかった。清和はそれができあがるまでふもとの嵯峨の清霞観に仮住まいしていたが、やがて病を得、京の粟田口の円覚寺
	に転じ、はかなくなった。
	村人がかなしみ、天皇を祭神とする一社を建てた。以後、千百年護持している。・・(中略)・・「清和源氏」などといって威を張っ
	た歴世の武家たちも、こういう村にこの天皇をまつる宮居があるなどは知らなかったのか、寄進一つしていない。もっとも宮居がきら
	きらしくなるのは、清和の人柄にとってもふさわしくなく、また村人にとっても、清和は自分たちの神であって、世間に押し出したく
	なかったのにちがいない。・・・・・ 司馬遼太郎著「街道を行く26巻」(P20〜21 水尾の村)


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