Music: 離宮にて

第72代 白河天皇
2000.March 京都市伏見区 成菩堤院陵




				
				【第72代 白河(しらかわ)天皇】
				別名: 貞仁(さだひと)
				誕生崩御: 天喜元年(1053) 〜 大治4年(1129)(77歳)  
				在位: 延久4年(1072) 〜 応徳3年(1086)
				父:  後三条天皇  第1皇子
				母:  藤原茂子(しげこ:閑院権中納言公成の娘)
				皇后: 藤原賢子
				皇妃: 藤原道子、藤原経子、源盛子、源師子
				皇子女:敦文親王、覚行親王、善仁親王(堀河天皇)、覚法親王、聖恵親王、善子内親王、
				令子内親王、禎子内親王、官子内親王、q子内親王、行慶、円行、静証  
				宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市  )
				御陵: 成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ:京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町)
 

		
		後三条天皇の譲位を受け、異母弟実仁親王を皇太弟と定めたが、応徳2年(1085)実仁親王の病没により、皇子善仁親王(堀河天皇)
		を皇太子として譲位、自らは白河上皇となった。譲位後も堀河、鳥羽、崇徳の各天皇が幼少で即位したため、以降も43年に渡って
		政治の実権を握り続けた。また、院の護衛として「北面の武士」を創設。その一方で仏教に傾倒し、永長元年(1096)出家して法皇
		となった。  

 

		
		近鉄電車で京都から奈良へ向かって12,3分の「竹田」駅付近に、「白河」「鳥羽」「近衛」という「院政の権化」とも言うべき平安
		時代後期天皇達の陵墓がある。出家して院政を開始した「白河天皇」は、「法王」と」なっても戒壇にて受戒せず、法名も名乗らず、
		息子の「堀河」、孫の「鳥羽」、曾孫の(実際は息子と言う説が有力)「崇徳」天皇と、三代43年に渡って「院政」をしいた。平安
		京の真南に離宮を造営し(鳥羽離宮)、その豪壮さは当時の日記によると「さながら遷都(みやこうつり)のごとし」と表現されて
		いる。専横と執権の限りを尽くした好色な「白河法王」も、やがて「崇徳天皇」の御代に77才で生涯を閉じる。その御陵はいま道路
		と田圃に囲まれている。

 

		
		この時代以降の天皇達は、藤原政治の終末期、源氏・平家を筆頭とする武士集団の台頭という端境期(はざかいき)にあって、いわ
		ゆる「院政時代」とでも言うべき皇室内の権力掌握に明け暮れる。天皇は幼くして即位し、そのため実権は上皇・法皇にあり、「天
		皇」は名ばかりで上皇、特に法皇が全てを支配していた。

 

		
		その端緒を築いたのがこの「白河法皇」である。「白河法皇」は60才で10才そこそこの、権大納言藤原公実の娘「璋子(たまこ)」
		(後の待賢門院)に手をつける。そして「璋子」が17才になった時、自分の孫の15才の「鳥羽天皇」に押しつけるのである。生まれ
		たのが「顕仁(あきひと)親王」(後の崇徳天皇)という事になる。表向きは結婚した「鳥羽天皇」と「璋子」の第一皇子でありな
		がら、誰もが「白河法皇」と「璋子」の間に生まれた子だと信じて疑わなかった。実際、「鳥羽天皇」は「崇徳天皇」の事を「叔父子
		(おじご)」と呼んで、生涯憎み続けたと伝えられる。その後「鳥羽天皇」と「璋子」の間には、数人の皇子皇女が生まれるのである
		が、その内の何人かは「白河法皇」と「璋子」の間に生まれた子ではないかと疑われている。

 

		
		このあたりの確執から、「崇徳上皇」は「鳥羽法皇」が崩御すると同時に挙兵する。「保元の乱」(1156年)である。「崇徳上皇」派と
		「後白河天皇」派の二つに割れた天皇家に、藤原氏、源氏、平家もそれぞれ二分して戦うが、結果は「崇徳上皇」派の敗北となり、
		上皇は讃岐へ流される。
		「院政」を開始した権力者として「白河天皇」は世に知られるが、実は系統に不信と疑心暗疑を植え付ける事になった張本人でもある。
		鳥羽天皇からも、崇徳天皇からも、そしておそらくは「璋子」からも憎まれたのではないかと推測される。


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