第63回歴史倶楽部例会で奈良県橿原市を歩いた時、宣化天皇陵の裏に崇神天皇の皇子で垂仁天皇の同母弟、倭彦命(やまとひこ)の 墓が在るのを知った。近鉄橿原神宮前駅西口より西へ歩くこと20分くらい。橿原高校の南東にある。越智桝山古墳と呼ばれ、96m× 90mの方墳だが、陵域は前方後円形をしている。
日本書記巻六には、「11月2日、倭彦命を身狭の桃鳥花坂に葬った。」という記事がみえ、倭彦命の死で殉死する侍従を墓の周りに生 き埋めにしたら、土中から数日間泣き叫ぶ声が聞こえて、天皇はおおいに胸を痛めた。そこで、天皇は以後殉死を禁じ、出雲の野見宿禰 (のみのすくね)の進言によって、皇后である日葉酢媛が死去した際には、墓には、人の代わり埴輪を作って並べた。これが埴輪の起こ りと言う事になっている。また、当麻蹴速と相撲をとった野見宿禰は、土師氏の始祖で、土師氏は後に菅原に住み、菅原姓になり、菅原 道真の先祖となる。この話はみんな知っていて、「あの話がほんとならこの廻りには家来達が一杯埋まってるという事になるねぇ。」 「そうやねぇ。」「生き埋めにされるとわかったらみんな働かんのじゃないかねぇ。」
「古事記」には、書記の「垂仁紀」に描かれた埴輪の起源にかかわる説話は記されていない。しかし倭彦(古事記では倭日子)の殉葬が 行われたという記事は、崇神天皇(垂仁と倭彦の父)の系譜の中に倭日子命の名があり、その名の下に注の形で、「此の王の時に、始め て陵に人垣を立てき」と記録されている。これによれば、墳墓に殉死をしたのはこの時が「始めて」であり、それまでは行われていなか った事になる。そして、垂仁記の末尾に、「其の大后比婆須比売命の時に、石祝作(いしつくり)を定め、又、土師(はじ)部を定めき」 と記録するのである。しかしながら、埴輪を立てたとか野見宿禰の名前は登場しない。これは一体何を意味しているのだろう。
垂仁天皇は、弟の死に際して初めて「殉死」なるものを採用したが、その余りの悲惨さにやっぱり思い直して妻の死に際してはそれに代 わる方法として埴輪を採用したのだろうか。 田道間守の話といい、倭彦の話といい、この天皇の御代に殉死なる制度が我が国で初めて採用されたような感じもする。まだ文献を詳 しくあたっていないので何とも言えないが、埴輪の起源と殉死はほんとに関係があるのだろうか。
小谷(こだに)古墳への道順を聞いた土地の老夫婦は親切で、苺を畑からもいできてごちそうしてくれた。メチャ甘い苺で、ス−パー に売っている苺はどうしてこんなに甘くないのだろうかとみんなで話した。松ちゃんは、「いやぁ今日の例会は、いい人達との出会い がいっぱいあって良かったです。」と感激していた。想いはみんな同じだ。