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第61代 朱雀天皇
2001.Feb.10 京都市伏見区醍醐御陵東裏町 






				【第61代 朱雀(すざく)天皇】
				別名: 寛明(ゆたあきら)
				生誕−崩御:延長元年(923)〜 天暦6年(952)(30歳)
				在位期間: 延長3年(925)〜 天慶9年(946)
				父: 醍醐天皇  第11皇子
				母: 藤原穏子(藤原基経の娘)
				皇妃: 
				皇子女:昌子内親王
				皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)  
				陵墓: 醍醐陵(だいごのみささぎ:京都府京都市伏見区醍醐陵東浦町)



		
		京都市営地下鉄東西線を、終点の「醍醐」で降りると「醍醐寺」へ向かって歩く。この寺の境内を通って朱雀天皇陵まで徒歩約15
		分である。




		
		◆醍醐寺
		貞観16年(874)、聖宝理源大師は上醍醐山上で地主横尾明神(よこおみょうじん)の示現によって霊泉(醍醐水)を得る。そして
		山上に小さな御堂を建立し、准胝(じゅんてい)観音像・如意輪観音像を安置した。これが醍醐寺の創建とされる。
		その後、醍醐天皇の御願によって、延喜7年(907)に薬師堂が建立され、また五大堂が落成されて上醍醐の伽藍が完成し、ひきつづ
		いて下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立された。ついで醍醐天皇の皇子朱雀天皇の起工により、そ
		の弟である村上天皇の御代に(天歴5年(951))五重塔が落成し、下伽藍が完成する。
		慶長3年(1598)の春、太閤秀吉が秀頼、北政所、淀殿、大名の長束正政家など約900名を従えて催した「醍醐の花見」は有名である。





 

 

この八幡宮前の道を2,3分行くと朱雀天皇陵がある。







		第61代朱雀天皇
		醍醐天皇の第11皇子。名は寛明。延長八年(930)9月、醍醐天皇は皇太子・寛明親王に譲位して程なく、46歳で崩御する。天皇
		はわずか八歳で即位したため、藤原忠平(時平の弟)が摂政となる。即位後、醍醐上皇、宇多法皇が相次いで崩じて後ろ盾を亡くし、
		摂政となった藤原忠平が実権を握った。醍醐天皇の御代、清涼殿に菅原道真公の祟りと言われた落雷があり、比較的安定していた平
		安時代前期が終了する。醍醐天皇のあとを受けて朱雀天皇は即位したが、相次ぐ内乱や天災に悩まされた在位期間であった。
		醍醐天皇時代に完成した「延喜式」に続いて、朱雀天皇の承平4年(931)に「和多類聚抄」(和多抄)も完成を見ている。





		
		承平5年(935)、平将門が関東で反乱を起こし、いわゆる「将門の乱」が始まる。またこの年、新羅が滅亡し、高麗国により朝鮮半
		島の統一が成る。翌承平六年(936)には、西海で藤原純友の乱が勃発する。朝廷は、藤原忠文を征夷大将軍に任命し将門討伐に向かせ、
		京都府八幡市の石清水八幡宮で、平将門と藤原純友の反乱鎮圧のための祭礼を執り行う。天慶2年(939)12月15日、平将門は自ら「新
		皇」と名乗り、新しい天皇に就任したことを宣言するが、天慶3年(940)2月、藤原秀郷・平貞盛らに攻められ、新皇宣言の後わずか
		2ヶ月で、猿島北山(現茨城県岩井市)に敗れる。将門の首はすぐさま都に送られ、獄門台にさらされるが、その首は空を飛んで関
		東に戻ったと伝えられ、その首の落ちた場所が、現在の東京駅近くの「首塚」である。





		
		一方、将門の乱直後に西海で乱を起こした藤原純友のほうも、天慶4年(941)6月に討ち取られ、ここに「承平天慶の乱」は平定され
		る。この乱に現れているように、この時代は地方に土着した貴族の武士化が進み、律令体制が次第に弱体化していく節目でもあった。 
		この乱の間、承平4(934)年7月と天慶元年(938)4月・8月の大地震、承平2 年(932)・承平7年(937)承平7年の富士山噴火が記
		録に見える。理科年表によれば、この937年の噴火で山中湖が形成されたそうである。

 

		
		天慶9年(946)、天皇は24歳で弟の成明親王(村上天皇)に譲位し、朱雀院に隠居した。この突然の譲位は、天皇が母穏子のもと
		へ行幸した際、天皇の姿を見た母がその姿をほめ、東宮(成明親王)のこんな姿も見たいと言ったのを、弟への譲位を促されたと受
		けとったからと言われる。村上天皇以降を一般に平安時代後期と呼び、やがて藤原道長・頼通の時代が到来する。



		
		朱雀天皇は天暦6年(952)崩御し、遺体は来定寺の北野(伏見区深草村付近)において火葬された。遺骨は醍醐天皇陵の脇に埋めら
		れ、祠が造られた。元禄11年(1698)に「御廟」として江戸幕府が認定し、ついで元治元年(1864)の改修によって拡張・整備され
		現在に至っている。現陵は、直径6mの円形の盛土を中心とし、一辺18mの方形の土地に周溝がめぐらしてある。 





		
		◆五重塔  平安時代(国宝)
		醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天歴5年(951年)に完成した。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、
		日本密教絵画の源流をなすものといわれる。





		
		◆平安末期の醍醐寺
		醍醐寺は平安末期政治の中心にあった人達の関与が深く、藤原一族に代わって大きい権力を持っていた権門源俊房(けんもんみなも
		とのとしふさ)の系統(醍醐源氏)が座主(ざす)として永く続いていた。そして座主勝覚(しょうかく 俊房の息子)の時代に山
		醍醐・下醍醐共に伽藍がことごとく整備され、永久3年(1115)に三宝院が建立され、醍醐寺発展の基礎が完成した。





		
		私の生まれ故郷は福岡県甘木市秋月である。秀吉に逆らって宮崎県高鍋へ流されるまで、この地は秋月氏が支配していた。秋月氏は
		大蔵氏を遠祖とする。秋月家由緒によれば、大蔵氏は後漢霊帝の玄孫が来朝し帰化した阿知使主の後裔といわれる。大蔵春実は天慶
		3年(941)、藤原純友が反乱を起こし大宰府に攻めこんで焼き打ちしたとき、朱雀天皇より錦の御旗および天国の短刀を賜わり、小
		野好古らとともに純友を追討した。その勲功によって西征将軍となり、筑前に所領を賜り、代々、太宰府政庁の府官の職務についた。
		そして、三笠郡原田(はるだ)村に移って原田(はらだ)と称した。春実より七代目の子孫原田種雄は、「秋月家譜」に「種雄賜封
		筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とあり、種雄が源頼家の時代に秋月荘を賜って、地名によって秋月氏と称したとなって
		いる。江戸時代になって、黒田長政の三男長興が福岡黒田藩の支藩として秋月藩を受領し、以来明治維新まで続くが、明治初期、不
		平氏族が萩の乱に呼応して「秋月の乱」を引き起こし、当然鎮圧されて「山峡の小京都」と言われる現在に至っている。



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