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第123代 大正天皇陵
多摩陵 2001.December 東京都八王子市








 


		高尾と聞いて、「うぇーそんな所に」と思ったが、案外近かった。東京駅から快速で1時間だ。駅前(北側)の
		道をまっすぐ行くと信号がある。その信号を曲がった所に立て札があり、それに沿って15分ほど歩く。ほどな
		く御陵のコンクリ−トが見えてきて、御陵だと判る。

 


		第123代 大正(たいしょう)天皇
		別名: 嘉仁(よしひと)・明宮(はるのみや)
		父:  明治天皇第3皇子
		母:  柳原愛子(なるこ)(柳原光愛の次女)
		生没年:明治12年(1879)〜 大正15年(1926)48才
		在位: 大正元年(1912)〜 大正15年(1926)
		皇居: 江戸城
		御陵: 多摩陵(たまのみささぎ)




		総門前広場に「多摩陵・多摩東陵」「武蔵野陵・武蔵野東陵」への入り口がある。白い玉砂利が敷き詰められ、
		杉の並木がズーツと奥へ続いているのが見える。明治天皇陵のようにまた延々と奥まで歩くのかしらん、と思
		ってしまった。

 

 


		高い杉木立の中を歩いて4,5分行くと分岐になった。右が昭和天皇と皇后陵。まっすぐ行くと大正天皇および
		皇后陵だ。すぐ側に、親子でなかよく葬られている。よかった、ここはそんなに歩かずにすんだ。



上の表示を左へ曲がって1分歩く。


右側が貞明皇后。林の奥が大正天皇陵である。



貞明皇后(大正天皇皇后)・多摩東陵



 


		大正天皇は大正15年12月25日に崩御したが、貞明(さだあきら)皇后は昭和26年(1951年)まで存命
		だった。天皇家について調べていると、その皇后達の記録にほとんどお目にかからないのに気ずく。歴史の
		表舞台に華々しく登場する事はあまりないので当然かもしれないが、時々むしょうにその一生を知りたい皇
		后にも遭遇する。貞明皇后は、侯爵九条道孝の四女で節子というのが本名だが、何故か調べてみたい気にな
		った一人である。陵墓の形状は、大正天皇・貞明皇后いずれも上円下方墳。









大正天皇多摩陵




		大正天皇は東京で生まれた最初の天皇である。皇居で生まれ(青山御所)、皇居で結婚し(賢所)、葉山御用邸
		にて崩御して新宿御苑で大喪された。歴代天皇のうちでは、初めて東京近郊に陵墓が営まれた天皇でもある。

		明治12年(1879)8月31日に青山御所で誕生。生後3週間で脳膜炎に似た症状の病気にかかり、以後、重度
		の百日咳、腸チフス、胸膜炎と次々に大病を患った為、心身の発達が遅れ気味だったと言う。児童の時分より制
		約や規則というものに縛られることを極端に嫌うと同時に、思ったことを何でも率直に発言する性格であったと
		伝えられる。
		明治22(1889)年、11月3日、立太子礼により皇太子となり、陸軍歩兵少尉に任命。同28年には数々の病
		魔におかされ、一時重体に陥る事態となったが奇跡的に回復全快した。この年、陸軍歩兵大尉に任命。
		明治31(1898)年、明治天皇の意向により東宮賓友となった有栖川宮威仁親王が、規律や格式を重んじる東宮
		職の反発を後目に、皇太子の健康状態維持優先を主張して地方巡啓を実現させた。明治天皇の了解の元、全国を
		行脚したおかげで、皇太子の体調は病弱だった頃とは別人の如く丈夫になった。旅先の庶民や官吏たちに優しく
		向き合い、また、誰よりも家庭を思いやる人徳の人でもあったと言う。
		詩歌にも才能を発揮したと言われている。

		明治45年(1912:大正元年)7月30日、父・明治天皇の崩御にともない践祚。「大正」と改元。2年後に第
		一次世界大戦が勃発し、日本はドイツに宣戦布告するが、遠いヨーロッパでの戦争だった事もあって、天皇は特
		にこれという政治的行動は起こしていない。




		大正4年、京都で即位の大礼を行った後、天皇はもっぱら日光や葉山のご用邸で静養の日々を送る。在位は15年
		であるが、実際に政務をとったのは10年弱である。大正天皇は、「帝国議会での遠めがね事件」などの、常軌を
		はずした事件で有名だが、皇太子時代にはかなり人間的な行動をとっていたようである。しかし、天皇に即位して
		からは「現人神」としての窮屈な生活の中で急速に体調を崩し、脳病をわずらい、最後は側近らによって”隠遁”
		のような形で引退を余儀なくされ、裕仁親王(昭和天皇)の摂政就任となった。
		「御発語に障害あり、御意志の御表現、はなはだ困難」という状態になった大正10年11月、政務は摂政の皇太
		子裕仁親王にゆだねられたのである。平民宰相・原敬は大正天皇と皇太子時代から懇意だったと言う。関東大震災
		は闘病生活のうちに過ぎ、5年後の大正15年12月25日に48年の生涯を閉じる。

 


		明治と昭和という内外の政治が激変した時代に挟まれて、大正はどちらかというと大衆文化が花開いた時代だった。
		明治と昭和という両天皇の間に生きた大正天皇も、政治に果たした役割に見るべきものはなく、むしろ大衆文化へ
		の寄与という形で今日に影響を及ぼしている。たとえばランドセル。これは彼が学習院に通っていた頃、侍従にせ
		がんで軍隊の背嚢に教科書を入れて登校したことに始まる。

 


		神前結婚式が一般化したのも大正天皇からだ。それまでは自宅で行う人前結婚式が一般的で、明治12年に新潟で
		神前結婚式があった時などは、「神葬祭のある以上は神婚儀もあえう訳なれば、別に怪しむに足らぬものの・・・
		随分と妙な儀式にありしと、かの地より告げ越せり。」(『郵便報知』明治12年5月2日付け)と新聞ダネにな
		るほどだった。
		明治33年5月10日、皇太子嘉仁と侯爵九条道孝の四女節子が宮中の賢所で神前結婚式を挙げると、日比谷大神
		宮(東京大大神宮)が式次第を一般向けに簡略化し、好評を博した。

		皇太子御成婚祝の新居として、当代一流の技術力を注ぎ込んでヨーロッパの宮殿を模した、豪華絢爛な芸術的とも
		言える赤坂離宮(現迎賓館)が建設されたが、父親である明治天皇の『贅沢だ』という一言で、当の大正天皇は一
		度もここを使った事がないと言われている。ちなみに皇室における一夫一婦制が確立したのも大正天皇からである。

		大正天皇陵は、上円下方墳(じょうえんかほうふん)で、方形の土台の上に円墳が乗っている。丸石で葺き上げてあ
		るとも言うが、遠目には、コンクリートで覆ってあるようにも見える。かなり全体の高さがあり、近くで見上げる
		と逆に上部の円墳は見えなくなる。




		[時事通信社]2001年12月13日 17:43

		大正天皇実録を公開へ=動静など記す文書−宮内庁(時事通信社)
		宮内庁は13日までに、大正天皇がかかわった事柄や行動などを記した「大正天皇実録」を今年度までに公開する
		ことを決めた。実録は歴代天皇の行動を記録した文書で、同庁が職務として編さんしており、明治天皇の「明治天
		皇紀」が既に刊行されている。しかし、大正天皇実録編さんについては、完成した1937年当時に報道されてい
		たが、内容は公開されていなかった。大正天皇実録の公開について、同庁は「情報公開法の対象外である書陵部が
		保存している歴史的資料」と主張、非公開としていた。情報公開審査会も同庁の主張を認めていたが、書陵部は
		「歴史的資料は一般の研究に供するのが筋」との見解から、今年度末までに調査が終了した分を公開することを決
		めた。実録は全97冊だが、プライバシーに関する部分は非公開となる見通し。 


		[毎日新聞] 2002年3月29日  宮内庁が「大正天皇実録」の一部公開
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		宮内庁は29日、大正天皇の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。実録は1937年に
		編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開
		となった。今回は即位した1912(大正元)年7月から14(同3)年6月までの記録が対象だが、86日分に
		わたって計141カ所が「個人情報」として黒く塗りつぶされた。「公にする慣行がない」と首相の内奏も伏せら
		れた。公刊されている明治天皇の実録は私的部分も含め公開されており、開示方法の当否も議論となりそうだ。
		実録は全85冊(巻1〜巻85)あり、巻48から巻55の8冊が今回公開分。ページ数では全体の9%に満たな
		い。同庁は今年末までに残りも公開する。 


29日公開された「大正天皇実録」の巻48から巻55までの8冊=宮内庁提供






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