【第74代 鳥羽(とば)天皇】 別名: 宗仁(むねひと) 誕生崩御: 康和5年(1103) 〜 保元元年(1156)(54歳) 在位: 嘉承2年(1107) 〜 保安4年(1123) 父: 堀河天皇 第1皇子 母: 藤原苡子(:藤原実季の娘) 皇后: 藤原璋子、藤原泰子、藤原得子 皇妃: 橘某、藤原某、紀某、他 皇子女:顕仁親王(崇徳天皇)、通仁親王、君仁親王、雅仁親王(後白河天皇)、本仁親王、 道惠親王、覚快親王、体仁親王(近衛天皇)、最中親王、禧子内親王、統子内親王、 研子内親王、叡子内親王、ワ子内親王、妹子内親王、頌子内親王、真誉、他 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ:京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町)
4才で即位。母は藤原実季の娘苡子。母苡子が没すると白河法皇に引き取られ、法皇の下で養育された。17才の時、祖父白河法皇 の養女で愛人でもあった待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)を皇后に迎えるが、璋子の生んだ子(顕仁(あきひと):後の 崇徳天皇)は白河法皇の子であると言われ、その事を知っていた鳥羽天皇も顕仁を「叔父子(おじご)」と呼び、終生憎み続ける。 世は白河上皇の時代であり、顕仁かわいさの白河上皇は鳥羽天皇を退位させてしまう。白河上皇が亡くなると、すでに顕仁(崇徳天 皇)に譲位して鳥羽上皇となっていた鳥羽院は唯一の上皇となる。以後、院政を引き継ぎ、崇徳、近衛、後白河と続く3代28年に およぶ「鳥羽院政」が続く事になる。康治元年(1142)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。
保安四年(1123)、鳥羽上皇はわずか5歳の第1皇子顕仁親王(崇徳天皇)に譲位し出家。その後、うち続く天災・飢饉・疫病を理由 に崇徳天皇を廃し、上皇となってから迎えた皇后得子との間の皇子を皇位につけた。これが「近衛天皇」である。「近衛天皇」は生 まれると、世継ぎのなかった崇徳天皇の養子になるが、これは鳥羽上皇の策略であった。実子に皇位を継がせるためであるが、その 後崇徳院に実子が誕生すると鳥羽上皇は生まれた崇徳天皇の実子を自分の養子にする。そうしなければ、「近衛天皇」は実現しない からである。当然崇徳院としては面白くない。しかも、「近衛天皇」が崩御した後も、自分の実子が皇位を継ぐ事はなかった。強大 な「鳥羽上皇」に屈したのである。
「鳥羽上皇」が亡くなると「崇徳院」はただちに「保元の乱」を引き起こし世の中を震撼させるが、受けた仕打ちを考えると是非も ないと思えてくる。作家の田中澄江が「憤怒の魔王」と呼んだ崇徳院は、その奇異な生まれの故に相当な迫害を受けるが、何もこれ は本人のせいではない。悪の権源がもしあるとすればそれは「白河法皇」である。すべて彼のとった行動が元で皇族内に策謀と確執 が定着した。祖父のまねをした「鳥羽上皇」もまたその矛先を向けられるべき人物かも知れない。
尚、保元の乱・平治の乱に破れた崇徳院は讃岐へ流されるが、9年間の配流生活の果てに46才で憤死する。その怨霊は「後白河天皇」 の御代を脅かし、「雨月物語」にも西行と崇徳院の問答として残っている。西行法師は出家前、北面の武士として鳥羽法皇に仕えて おり、法皇の葬送にも参列している。 鳥羽法王は鳥羽殿で崩御し、遺体は安楽寿院本御塔(三重塔)に納められた。現在の建物は、三重塔荒廃後に建立された法華堂であ る。安楽寿陵のすぐそばにある「冠石」には、鳥羽天皇が法皇になった時、冠をこの下に埋めたという伝説がある。