Music: Watching the Wheals

番外編・日本武尊陵
2000.Sep.3 奈良県御所市玉手 琴引原白鳥陵





青木繁「日本武尊」(東京国立博物蔵)




	古事記には「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と表記されている。ヤマトタケルの尊(みこと)。第12代景行天皇の子で名は
	「小碓」(おうす)という。「大碓」という兄が居て、これを殺してしまった事から父景行天皇に熊曽征伐を命ぜられ、果たすとす
	ぐさま東国遠征を命じられる。「父は私に死ねと言うのか」と叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に泣きつくが、叔母は素戔嗚尊
	が大蛇の尾から取り出したという「草薙の剣」と火打ち石を与え、万一の時に使用するよう諭した。相模の国で火攻めに会い、草を
	なぎ倒して難を逃れるが「草薙」というのはここから来ている。
	尾張から伊吹山の神を退治に出かけるとき「草薙の剣」を忘れ、伊吹山の神々に敗退する。その時の傷が元で、能煩野(のぼの:三
	重県鈴鹿郡)まで来て命を落とす。「飛鳥へ還りたい」と望み、白鳥になってそれを果たしたという。その白鳥の飛んできたところ、
	というので御陵にも白鳥陵と命名されている。「草薙の剣」はそのまま尾張に祭られ「熱田神宮」のご神体となった。
	市川猿之助の「ヤマトタケル」はこれを題材にしたス−パ−歌舞伎でなかなか面白い。白鳥が飛んでいくところが有名な猿之助の
	「宙づり」である。(熱田神宮の項参照)

 


	11月何日かにここで祭典があるそうで、3人のおじさん達が、それに会わせて階段造成工事をやっていた。「地元の者ンでもしらん
	のによう探して来るのう。時々あんたみたいなんが来るなぁ。」

 


	記紀ではヤマトタケルは天皇とは書かれていないが、幾つかの風土記にはヤマトタケルが「天皇」と書かれているものがある。
	「常陸国風土記」、「阿波国風土記」などは「倭武天皇」とか「倭健天皇」としている。また「住吉大社神代記」では「父天皇」と
	表記されている。そのため時々、ヤマトタケルは天皇だったのではないかという議論が歴史雑誌等で見られる事があるが、これは
	可能性は薄いと思われる。伝承が形を変えてそう表記されるに至ったものだろう。神功皇后なども「天皇」と表記されている例もある。




	奈良県御所(ごせ)市玉手。孝安天皇陵を見に来てここにヤマトタケル陵があるのを知った。入り口に看板が一つあるだけで、道も
	狭い。廻りは住宅に囲まれていて、御陵があるのもなかなか分からない。登ってみて初めて分かる。これでは確かに地元のモンでも
	分かるまいと思われる。


以下は、2003.3.2(日)に歴史倶楽部の例会で再びここを訪れた時のもの。重複するがそのままここにも収録する。


2003.3.2(日) 日本武尊琴弾原陵


	【日本武尊・琴弾原陵(やまとたけるのみこと・ことひきはらりょう)】
	「巨勢の道」は一応全部終了したのだが、どうせ近鉄御所駅へ戻るのだし、途中にある日本武尊陵と孝安天皇陵に寄っていく事
	にした。私はどちらも一度来たことがあるが、皆さんはじめてだそうで、私も以前来たときは整備中だった日本武尊陵が、その
	後どうなったか見たかった。
 




	<白 鳥 伝 説>
	日本武尊は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国
	を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってくるが、休む暇もなく父から東国の蝦夷を征討せよと命じられる。その命令を受けた日
	本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えている。幾多の苦難のすえ、東国を征討するが、その帰る道中、伊吹
	山の神との戦いに破れ、傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとする。能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時、つい
	に力尽きその地で死んでしまう。死に臨んで日本武尊は、大和への思いを、「大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる
	大和し美し」と詠んでいるが、能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、この琴弾原を経て、旧市邑(ふ
	るいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えている。
 

 


	御所市の琴弾原は、その昔旅人が休憩し居眠りをしていると、どこからともなく美しい琴の音色が聞こえてきて、辺りを見回す
	と、水たまりに水の雫が落ち、岩に響く音であった。その音色は、琴を弾いているような音であったことから、琴弾原と呼ばれ
	るようになったという。伝説に基づいて、日本武尊の墓は三重県亀岡市・奈良県御所市・大阪府羽曳野市の三市にあり、一般に
	「白鳥三陵」と呼ばれ、そのゆかりから、3市間で歴史・文化を契機とした友好を図りまちづくりのための交流を行っている。


琴弾原陵の全景






2000.Oct.15 大阪府羽曳野市軽里 白鳥陵




陵印提供:奈良・今崎氏



左、下は河内の国旧市邑(ふるいちむら:現、大阪府羽曳野市軽里)にある白鳥陵である。考古学的には古市前山古墳と呼ばれる。能煩野から飛んできた白鳥は、大和の国琴引原に降りた後再び飛び立ってここに降りたとされる。それ故ここも「日本武尊白鳥陵」である。これに能煩野の墓も合わせて3つを「白鳥陵」と呼ぶ。





	別名、軽里大塚古墳とも言い墳丘190mの前方後円墳で、琴引原の白鳥陵に比べると堂々たる古墳である。円筒埴輪、朝顔形埴輪、
	衣笠埴輪、家型埴輪などが出土しており、5世紀後半の古墳と考えられている。濠と言い、堤と言い、実に立派な古墳だが、「日本
	武尊陵」としては立派すぎて、悲劇の主人公の墓にしては似つかわしくない気がする。「琴引原白鳥陵」の方がそれらしく見える。
	日本書紀では、白鳥はここに(旧市)降りたが、他の文献には更に飛び立っていったという記述もある。



 

 







 

 

 








2003.4.19 日本武尊能褒野陵





	JR関西線の「井田川駅」から30分ほど歩く。タクシーがあったら乗ろうと思っていたが、タクシ−などがあるような町ではなか
	った。駅も無人である。しかもここから大阪方面への電車は1時間に1本しかない。さらに来た電車は次の「亀山駅」まで。ここで
	2.30分待って、ここから1時間程掛けて「加茂」まで来る。ここで「大和路快速・大阪行」に乗ってやっと大阪へ戻れる。大阪
	からも名古屋からも、電車利用は大体3時間コースである。

 



駅前から国道1号線を横切って住宅街の中を抜けて30分ほど歩く。春先とは思えない、初夏のような暑さで汗びっしょりになった。




	能褒野(のぼの)陵は、安楽川にかかる能褒野橋の北側にある。古墳一帯は駐車場・案内板も整備された「のぼのの森公園」になっ
	ており、陵自体は、全長90m、前方部経44m、高さ6.1m、後円部56m、高さ9.1mの、空掘りをめぐらした前方後円墳である。
	周辺に円墳もいくつかある。5世紀初の鰭付朝顔形円筒埴輪が出土しており、もとは丁字塚と呼ばれていた。丁子塚の他にも「田村
	王塚」「能褒野王塚古墳」「日本武尊能褒野陵」等の名称がある。公園にはその朝顔形円筒埴輪を模した噴水が池の中に立ててあり、
	水飲み台も埴輪である。隣には、明治になってから作られた能褒野神社がある。





 





 

能褒野神社。日本武尊、弟橘姫命を祀る。周辺は木立立ちこめる森で、「のぼのの森」公園として整備されている。



 

 


	森の途中から、神社本殿へ行く道と御陵へ行く道とに別れている。まず御陵を見に行く事にする。

	ヤマトタケルは「古事記」によれば倭建命と言う字を当てているが、「日本書紀」では日本武尊と表記する。記紀によれば、日本武
	尊は東征の帰路、ここ「能褒野」で死亡し、この地に墓が営まれたと言う。この古墳は4世紀末の築造と考えられ、日本武尊の英雄
	伝説にまつわる北伊勢地域に存在する古墳群中最大のもので、主墳を中心に大小16の陪塚があり、いわゆる能褒野古墳群を構成す
	る。その中核をなしているのがこの御陵である。10世紀の初めに編纂された「延喜式」の「諸陵寮」は、この陵の事を「能褒野稜
	日本武尊 在伊勢国鈴鹿郡 兆域東西二町 守戸三烟」と記しており、平安初期には日本武尊の墓は鈴鹿郡のどこかに実在していた
	のであり、それは約220m四方の墓域をもち、墓守の家も三軒ある相当の規模であったことが窺える。

 

 


	江戸時代、尊皇論の台頭に従って陵墓の探索・裁定作業が進められ、日本武尊墓の探索も行われたが、加佐登の白鳥塚、長沢の武備
	塚、双児塚、国府の王塚などを日本武尊陵に比定する論が出現し、なかなか決着は着かなかった。候補地とされた主な古墳の所在は
	以下のようなものである。

	@、白鳥塚(鈴鹿市加佐登)A、武備塚(鈴鹿市長沢)B、双児塚(鈴鹿市長沢)C、王塚(鈴鹿市国府)D、丁子塚(亀山市川崎)

	@の白鳥塚を強く主張したのは本居宣長や平田篤胤ら江戸後期の国学者達である。幕末には本居ら国学者の権威はそうとうなものに
	達していたので、付近の地名に日本武尊に関係するのものが多いことなどの傍証も加わって、候補地の中でも最も有力視されてきた。
	しかし同じ江戸後期の国学者、建部綾足はAの武備塚を支持し、車塚の上には歌碑を建立したりしている。武備塚は現在では、日本
	武尊の墓を守っていた墓守の建部(たけべ)氏の祖先の墓とする見方が一般的で、B、C、の説もさほど強い信憑性はなかったよう
	である。Dの丁子塚は、明治にはいっても日本武尊の陵墓候補には登っておらず、明治5年には教部省も一時は白鳥塚を能褒野陵に
	しようとしていたらしいが、明治12年に内務省は突然、これまで候補地にも挙げられてこなかった丁子塚を、日本武尊能褒野陵と
	決定したのである。丁子塚が北伊勢地方では最大の前方後円墳である事、周濠をめぐらし墳丘形式も古型式だった事、などがその理
	由と思われ、より日本武尊陵墓にふさわしいと考えたからだと思われる。明治12年11月10日、旧内務省はこの地を以って日本
	武尊の墓として治定し、周囲に土柵、鳥居、石階などを設けて守部を置いた。

 






	私見では、「日本武尊」という名は固有名詞ではなく機関名だろうと思う。ヤマトタケルという一人の人物が実在したのではなく、
	景行天皇配下の「全国制覇軍」全体を指す名で、その最高司令長官は実際に景行天皇の実子「小碓(オウス)」であった可能性はあ
	る。しかし各地に転戦した将軍達は大和朝廷屈指の猛者で、それぞれヤマトタケルを名乗ることを許されていたのだろう。或いは、
	帝の子を名乗ることも許されていたかもしれない。そして各地を平定し、幾つかの国での故事が集大成されて記紀に記録されたので
	はないかと思う。ここ能褒野にも陵があり、御所、羽曳野にも陵があるし、その他「こここそ日本武尊陵だ」という場所が各地にあ
	る事がそれを証明しているような気がする。日本武尊陵の一つが、平安時代初期には鈴鹿郡のどこかに実在していた事は事実であろ
	うし、日本武尊伝承がこの地方に多いということは、鈴鹿川周辺が、当時の大和朝廷の東国経営上、重要な要衝にあたっていたとい
	う背景があったからであろうし、それは御所や羽曳野にもついても言えることだろう。



御陵の前の光景。田んぼの向こう側の土手が安楽川の土手である。

 



能褒野神社へ行く。うっそうとした森であるが暗くはない。明るく気持ちの良い森だ。

 



 










	ヤマトタケル	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	ヤマトタケル(やまとたける、伝 72年?113年[1])は、記紀に登場する皇子である。ヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)
	とも呼ばれ、諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)。第12代景行天皇の皇子・第14代仲哀天皇の父とされる。津田左右吉の説では、
	実際には4世紀から7世紀ごろの数人の大和(ヤマト)の英雄を統合した架空の人物とされる。

	『日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命に作り、またの名を日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)
	ともいった。また、『尾張国風土記』逸文と『古語拾遺』では日本武命、『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』逸文で
	は倭健天皇(または倭健天皇命)に作る[2]。

	天皇系図 8〜15代ヤマトタケルは『日本書紀』、『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。母は播磨稲
	日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。兄に大碓命。『日本書紀』、『先代旧事本紀』7巻天皇本紀[3])によると、ヤマトタ
	ケルとこの大碓皇子は双子であるとされる。
	『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』ではヤマトタケルの兄弟や、妃と子の関係にかなりの異同がある。また『古事記』は
	倭建命の曾孫(ひひこ)である迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるという不可解な系譜を載せてい
	る。このことから吉井巌、菅野雅雄などは、景行天皇とヤマトタケルの親子関係について否定的な見解を示している。

	『古事記』と『日本書紀』[4]による説話は、大筋は同じであるが、主人公の性格付けや説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差があ
	る。ここではより浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性に彩られた、『古事記』の方の説話を中心に述べて
	ゆく。おおむね、『日本書紀』のほうが天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的である。
	(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。

	<西征>
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのことで小碓
	命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭
	姫命が斎王を勤めていた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。 
	日本書紀 
	兄殺しの話はなく、父天皇が一旦平定した九州地方で、再び叛乱が起きたため、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場
	もなく、従者も与えられている。 
	先代旧事本紀 
	(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令?熊襲 時年十六? 按日本紀 當作二十七年[5]とあるのみ。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃を狙ってまず兄建を斬り、続いて弟建に刃
	を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)
	の号を献じた。 
	日本書紀 
	熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされている点と、台詞が『古事記』より、天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じである。
	ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される)。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	その後、倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換した上で、太刀あわせを申し込み
	殺してしまう。 
	日本書紀 
	崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、全く同型の話が見えるが、日本武尊の話としては出雲の話は全く語られていな
	い。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。 

	<東征>
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死
	ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え、「危急の時にはこれ
	を開けなさい」と言う。 
	日本書紀 
	当初、大碓命が東征の将軍に選ばれたが、彼は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が名乗りを挙げる。天皇は最大の賛辞と
	皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。日本武尊は伊勢に寄って、倭姫命より天叢雲剣を賜る。 
	ここの部分が最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命も存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征
	討におもむく展開となっている。天皇の期待を一身に受けて、出発する日本武尊像は栄光に満ちており、『古事記』の涙にくれなが
	ら旅立つ倭建命像とは、イメージに大きな開きがある。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 		倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。 
	日本書紀 	対応するエピソードはない。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭ってしまう。そこで叔母から貰った袋を開けたところ、
	火打石が入っていたので、草薙剣(天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。それで、そこを焼遣
	(やきづ=焼津)という。 
	日本書紀 
	駿河のこととなっているが大筋はほぼ同じで、焼津の地名起源になっている。ただし、火打石は叔母に貰った物ではない。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わ
	って入水すると、波は自ずから凪いだ。入水に当たって媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。 

	原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母

	読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも

	訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……

	弟橘姫は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵
	を造って、櫛を収めた。 
	日本書紀 
	「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったことが明記されており、同様に妾の弟橘媛の犠牲によって
	難を免れたことが記されているが、和歌の挿入はない。 
	--------------------------------------------------------------------------------
 	古事記 
	その後倭建命は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこ
	から東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ…)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶように
	なったと言う。また甲斐国の酒折宮(山梨県甲府市)で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、
	「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」との下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しな
	の=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。 
	日本書紀 
	ルートが大きく違う。書紀では上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)まで至っている。陸奥平定後は『古事記』同様
	に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って鳥居峠(群馬・長野県境)で、
	「あづまはや…」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。その信濃の坂の神を
	蒜で殺し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	尾張に入った倭建命は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま
	結婚してしまう。そして、伊勢の神剣草薙剣(天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)へその神を素手で討
	ち取ろうと、出立する。 
	日本書紀 
	経血について詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行く経緯に差はない。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化
	身で、大氷雨を降らされ、命は失神してしまう。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ヶ原町あるいは米原市の両説あり)
	で正気をやや取り戻すが、すでに病の身となっていた。 
	弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。ここでは地名起源説話を織り交
	ぜて、死に際の倭建命の心情を映し出す描写が続く。そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命はついに「倭は国のまほろば…」
	以下の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。 
	日本書紀 
	日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったことから、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようや
	く醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、朝廷には吉備武彦を遣わし
	て報告させ、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父親である景行天皇が九州
	平定の途中に日向で詠んだ歌となっており、倭建命の辞世としている古事記とほぼ同じ文章ながら印象が異なっている。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いてその周りで這い回り、歌を詠った。
	すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちはなお3首の歌を詠いながら、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」
	(天皇の葬儀に歌われる歌[6])となった。 
	日本書紀 
	父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥[7]となって、大和を指して飛んだ。後には衣だ
	けが残されていたという。 
	--------------------------------------------------------------------------------
	古事記 
	白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがてまたその地より天に翔り、行ってしまう。 
	日本書紀 
	白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)となっていて、その3箇所に陵墓を作ったと
	している。こうして白鳥は天に昇っていってしまう。その後天皇は、日本武尊の御名代として武部(健部・建部)をさだめた。 
	『古事記』と異なり、大和に飛来している点が注目される。 


	草薙剣
	この説話では、駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が
	“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったものとしている。なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神
	宮にて祀られたが、天智7年(668年)僧道行によって盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、朱鳥元年(686年)に天武
	天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再度熱田神宮に祭られることになった。熱田神宮には「酔笑人神事」といってこのときの
	剣の帰還をひそかに喜ぶ神事がある。
	なお、ヤマトタケルを祭祀する草薙神社社伝によると、

	尊は東国を平定したが、都に帰る途中伊勢の能褒野(のぼの)で没したので、お父様の景行天皇がお嘆き遊ばされ、尊の手柄をご覧
	なさるため東国に行幸され、その時この地に輿を留めて、尊を奉祀し尊の遺品「村雲」を改め「草薙神社」を建立し「草薙の剣」を
	納めたという。その後「草薙の剣」は第四十代天武天皇の朱鳥元年に勅命により現在の熱田神宮に奉祀された、とある。

	ヤマトタケル説話の構成
	ヤマトタケルの物語は、かつて吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面によって変わるのが特徴である。また、説話ごとに
	相手役の女性も異なっている。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関わっていたこと
	がうかがえる。

	小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説) 
	妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、近江の一の宮が建部神宮で祭神がヤマトタケル
	であること…などから近江=滋賀県がヤマトタケルとつながりの深いことがわかる。兄大碓命の封地が美濃であることと考え合わせ
	ると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。碓や稲依別の名からは、穀霊であることが推察できるが、碓から生み出される餅が白
	鳥に変身する話が『山城国風土記』などに見られ、白鳥との関連もうかがわせる。なお、『武智麻呂伝』にはヤマトタケルが伊吹山
	で、『平家物語』剣の巻には近江で白鳥となった説話が伝わっており、白鳥になる話の根幹が近江にあった可能性は否定できない。 

	倭姫・倭ヲグナの物語(大和に伝わる幼童神伝説) 
	日本においては、桃太郎や一寸法師など童形の英雄によって悪の征伐がなされるという説話が多く見られるが、このくだりについて
	も同様の類型性がうかがえるとされる。また折口信夫はそれらの分析を通じて、幼童神的モデルを育てる「小母(おば)」の存在を
	指摘しており、この場合倭姫がそれに該当するものと見られる。また、少年であるヤマトタケルが女装する点に関し、様々な文化圏
	のシャーマニズムにおいて散見される異性装と相通じるものと指摘される。

	出雲タケルの物語
	出雲の神門臣の勢力争いの物語の挿入→原型は崇神紀の出雲振根説話 
	タケル大王・橘姫の物語(関東地方の英雄伝説か?) 

	『常陸国風土記』等には倭武天皇−橘皇后、大橘姫など表現されており、各種の地名起源説話が伝わっている。本来は山を象徴する
	武王と海を表す橘后の神話と推定される。現在でも千葉県などに地名説話が多く残っているのは、関東にかなり根を下ろした伝承で
	あったからと考えられる。

	美夜受媛・草薙剣の物語(熱田神宮を巡る伝説) 
	吉井巌は、本来皇位の象徴である三種の神器の草薙剣が、尾張の熱田神宮に置かれている理由を説明するために、ヤマトタケルに仮
	託された物語と考えられるとする。詳細は草薙剣の項を参照されたい。

	斎王倭姫の物語(伊勢神宮を巡る伝説) 
	死に際する彷徨の物語が、伊勢神宮の神戸の見られる地域で語られ、かつ伊勢斎宮の制度を確立した天武天皇の壬申の乱の際の進軍
	ルートに重なることから、伊勢とのかかわりが考えられるが、横田健一は『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』にヤマトタケルの物
	語が見えないことを指摘している。おそらく、草薙剣の問題でヤマトヲグナ説話の登場人物のヤマトヒメと斎王倭姫命を結びつけた
	ことにより、伊勢地方の説話がヤマトタケルに仮託されたのであろう。

	大御葬の物語(葬礼を司った土師氏の伝承) 
	吉井巌は、聖徳太子の弟で、実在する初の皇族将軍である来目皇子が出征先の九州で病死したことがモデルとなっているとする。こ
	の葬儀を主導した土師氏の葬送儀礼が物語に取り入れられたのであろうとする。 

	祭祀
	ヤマトタケルが歿した能褒野の地とされる三重県北部には、ヤマトタケルの墓とされる古墳(白鳥陵)がいくつかあった。その中で
	も鈴鹿市加佐登の「白鳥塚」と呼ばれる円墳が最有力とされていたが、1879年(明治12年)、内務省は亀山市田村町の「丁字塚」と
	呼ばれる前方後円墳(能褒野王塚古墳)がヤマトタケルの墓であると治定し、「能褒野陵」と命名した。能褒野陵は全長約90メート
	ル、高さ約9メートルで、三重県北部最大の前方後円墳である。1895年(明治28年)、能褒野墓に隣接してヤマトタケルを祀る能褒
	野神社が創建された。
	その他、白鳥陵が、『日本書紀』に即して大阪府羽曳野市(軽里大塚古墳)と奈良県御所市に比定されている。また、ヤマトタケル
	の息子が創始したといわれる建部大社(滋賀県大津市)や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立ったところに建てられたとさ
	れる大鳥大社(大阪府堺市西区)の主祭神として祀られている。どちらもその国の一宮として強い信仰を得ている。大鳥神社(鷲
	神社)は各地に分布しており、大鳥大社はその本社とされる。


	<ゆかりの地>

	神社
	走水神社
	(日本武尊の父である景行天皇が、この地に日本武尊を祀ったのに始まると伝えられる。古事記に記された日本神話によれば、110
	年に日本武尊が走水から上総へ向かう途中、海上で難に遭い、弟橘媛命が身を投じてその難を救ったと伝えられる) 
	腰掛神社
	(東征の途中、ヤマトタケルが石に腰掛けて休憩したという伝説があり、その石を祀った神社である) 
	山宮浅間神社
	(東征の途中、賊徒の攻撃により追い込まれた尊が、富士の神を祈念し窮地を脱することに成功した経緯で神霊を祀った場所とされる) 
	武蔵御嶽神社
	(東征時追手に追われ白狼に助けられたという伝承が残る、御影が犬であるのはこのため) 
	三峯神社(
	ヤマトタケル創建と伝わる、神使の狼が東征時道案内をしたとされる) 
	白鳥神社 (東かがわ市)
	(白鳥となって飛び去ったヤマトタケルが舞い降りたという伝説が残る) 


	<その他>

	岩蔵温泉 (東征での傷を岩倉温泉で癒したという伝説が残る) 
	愛知県 - 笠懸の松 (一宮市大和町)、腰掛岩(中村区岩塚町)、白鳥塚古墳(守山区上志段味東谷山)、生路井(東浦町生路) 
	岐阜県 - 居醒水(関ヶ原町玉)、居醒水・腰掛石・鞍掛石(米原市醒井・中仙道)、桜の井戸(養老町桜井・みゆき街道) 
	四日市市 - 杖衝坂(釆女町)、足洗池(三重命名の池 西坂部町御館)、目洗いの玉葛井(たまかつい 菰野町下村) 
	桑名市 - 日本武尊尾津前御遺跡、ヤマトタケルが足を洗ったという伝説がある平群池(へぐりいけ)、平群神社などがある。 
	加古川市 - ヤマトタケルが生まれたときに入れられたといわれる器がある。母、播磨稲日大郎姫の墓とされる日岡御陵がある。 


	<注記>

	1: 『日本書紀』による(景行天皇2年?43年)。ただし30歳没とされる。 
	2: 古代・中世のヤマトタケル 変貌する神話 Yamato-takeru in Ancient and Middle Ages:The Transformed Myth 磯前順一 
	3: 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀 第一 大碓命 次 小碓命 次 稚倭根子命矣 其一 二皇子 一日同胞雙生 
	4: 岩波書店日本古典文学大系本『古事記』、『日本書紀』上による。 
	5: 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀 
	6: 「大御葬歌」は昭和天皇の大葬の礼でも詠われている。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での
	   再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。 
	7: 当時の“白鳥”は現在のハクチョウのみを指すのではなく、白鷺など白い鳥全般を指している。 

	<参考文献>
	ウィキクォートに日本神話に関する引用句集があります。『古事記』『日本書紀』『風土記』(岩波書店日本古典文学大系) 
	吉井巌『ヤマトタケル』(学生社 1977年、2004年OD版) ISBN 4-311-90010-4 
	上田正昭『日本武尊』(吉川弘文館人物叢書 1985年) ISBN 4-642-05024-8 
	小椋一葉『天翔る白鳥ヤマトタケル 古代史II』(河出書房新社 1989年) 
	小林惠子『解読「謎の四世紀」』(文芸春秋 1995年) 
	編・森浩一 門脇禎二『ヤマトタケル 尾張・美濃と英雄伝説』(大巧社 1995年) 
	芦野泉『白鳥の古代史』(新人物往来社 1994年) 
	谷川健一『青銅の神の足跡』(集英社文庫 1989年) 
	谷川健一『白鳥伝説』上・下 (小学館文庫 1997年) 
	熱田神宮宮庁『熱田神宮』 





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