【第57代 陽成(ようぜい)天皇】 別名: 貞明(さだあきら) 誕生: 貞観10年(868) 〜 天暦3年(949)(82歳) 在位期間:貞観18年(876) 〜 元慶8(884)年 時代: 平安時代 父: 清和天皇(せいわてんのう) 母: 藤原高子(ふじわらのたかいこ:藤原基経の妹) 皇后: 姉子女王 皇妃: 皇子女:元良親王、元平親王、元長親王、元利親王、長子内親王、儼子内親王 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都市) 御陵: 神楽岡東陵(かぐらおかのひがしのみささぎ:京都府京都市左京区浄土寺真如町) 京都市バス「銀閣寺道」下車、徒歩10分
銀閣寺から南へ下る「哲学の道」。この道の東側、東山の麓に「冷泉天皇陵」がある。「哲学の道」を挟んで「冷泉 天皇陵」とは反対側の、すこし銀閣寺寄りに、この陵はある。車道からちょっと入っているのでわかりにくいかもし れないが、誰かに「吉田山荘の前」と尋ねればいい。
清和天皇の第1皇子で、母は当時最大の実力者藤原基経(もとつね)の妹、高子皇太后。父清和天皇から譲位されて、 父と同じく9歳と幼くして即位した陽成天皇は、政治には無関心で良房の息子基経を摂政として、全面的に政治を委 託した。基経は地位に驕ることなく、その時期途絶えていた班田収授(はんでんしゅうじゅ)の復活や、蝦夷反乱の 鎮圧などに活躍した。だが、陽成帝元服を境に基経は豹変する。摂政返上を願い出て宮中にも出仕せず、何ヶ月にも 渡って自宅で政務を行うという行動に出たのである。基経は、陽成帝に対して強い不満と嫌悪を抱いていたが、元服 を機に、一気にそれを表面化させたのだと推測されている。 陽成天皇は、実は狂気の天皇と言われている。「暴悪無双」と言われ、「物狂帝」というあだ名も付いていたくらい だ。蛙を集めさせては、それを蛇に呑ませて楽しんだり、犬と猿を喧嘩させたりして喜んだとされている。反面、盲 人達の世話をやくといった心優しい面もあるのだが、狂気の方が世の評価は強かったようである。 基経が出仕を拒んでいる間にも、宮中で犯人不明の殺人事件が起きる。人々は、狂人陽成帝の仕業と噂したが、結局 下手人は不明のままであった。その後、帝は基経に促され在位9年で譲位する。その後82才で没するまで公の席に は姿を現さなかった。
他の多くの天皇陵と違い、ここは森がない。背後に山もなく、平地にいきなり塚があり、申し訳程度に周りを木々が 覆っている。 「清和源氏」・「桓武平氏」という言葉がある。源氏は清和天皇に、平氏は桓武天皇にその祖先があるという事を表 わした言葉である。一般に、天皇家が分家して貴族となり、広く庶民のなかに溶け込んでいったのは良く知られてい るが、源氏が最初に成立したのは実は嵯峨天皇の時で、これは皇族としての出費を減らす為、臣下としての地位に落 とし、高級官僚としての給与を払うことで、膨大な皇室費を削減しようと言う天皇自身の発案であった。嵯峨天皇自 身がそう述べている。 清和源氏、桓武平氏というのは、実は貴族としての源氏・平氏の祖ではなく、武士としての源氏・平氏がこの2天皇 の時代に分家したとされるものである。しかしながらこの源氏は、実は清和天皇ではなく陽成天皇にその祖がある、 という説がある。源家3代と称される、頼信、頼家、義家の祖先は実際は陽成天皇の子、元良親王だというのである。 ところが見てきたように陽成帝は狂気の人だった。これでは源氏の祖としては具合が悪いというので、後世になって 一代前の清和天皇が祖先にされた、と言うのである。
真相はどうであったのか知るよしもないが、「源氏」の系統は、何と言っても天皇の子孫であり、その後も武士にお ける名門中の名門であり続け、「征夷大将軍」というポストは、この「源氏」の流れをくむ一族でないと就任できな かった。その為、信長も家康も、「源氏」の系統を名乗っている。しかし家康はどうも家系をねつ造した可能性が高 いとされる。秀吉も相当苦労したようだが、結局彼の出自はどう見ても「源氏」にはほど遠かったので、結局彼は 「征夷大将軍」になれず、「関白」太閤秀吉で我慢するしかなかった。 陽成天皇の子孫がもし源氏の祖で、家康がほんとに「源氏」の流れをくむとしたら、この天皇の子孫が、明治を迎え るまでの我が国の社会を動かし続けたと言うことになる。
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