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特別展 「栄西と建仁寺展」
開山・栄西禅師 800年遠忌 特別展「栄西と建仁寺」 東京国立博物館HP
平成館 特別展示室 2014年3月25日(火) 〜 2014年5月18日(日)
2014年は、日本に禅宗(臨済宗)を広め、京都最古の禅寺「建仁寺」を開創した栄西禅師(ようさいぜんじ、1141〜 1215)の800年
遠忌にあたります。これにあわせ、栄西ならびに建仁寺にゆかりの宝物を一堂に集めた展覧会を開催します。
本展は、近年研究の進んでいる栄西の著述のほか、建仁寺に関わりのある禅僧の活動を通して、栄西の伝えようとしたもの、そして
建仁寺が日本文化の発展に果たした役割を検証しようとするものです。
俵屋宗達の最高傑作、国宝「風神雷神図屏風」を筆頭に、海北友松筆の重文「雲龍図」など建仁寺本坊方丈障壁画、山内の塔頭に伝
わる工芸や絵画の名品、栄西をはじめとした建仁寺歴代の書蹟はもちろん、全国の建仁寺派の寺院などが所蔵する宝物を展示します。
建仁寺 出典:ウィキペディア
所在地 : 京都府京都市東山区小松町584
山 号 : 東山(とうざん)
宗 派 : 臨済宗建仁寺派
寺 格 : 大本山、京都五山三位
本 尊 : 釈迦如来
創建年 : 建仁2年(1202年)
開 基 : 源頼家、栄西(開山)
正式名 : 東山 建仁禅寺
文化財 : 風神雷神図(国宝) 方丈、勅使門、絹本著色十六羅漢像16幅ほか(重要文化財)
建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦
如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。
京都五山の第三位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭として
は、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院
などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読む
が、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺
が最初の禅寺である。
日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西がはじめとされている。栄西は永治元年(1141年)、備中国(岡山県)に生まれた。13歳で比
叡山に上り翌年得度(出家)。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2回、南宋に渡航した。1度目の渡宋はわずか半年であった
が、2度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久2年(1191年)、虚庵から印
可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難で
あった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治二年(1200年)に建立された寿福寺の開山
となる。
その二年後の建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺
である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。
創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の三宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背
景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259年)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院とな
る。建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永四年(1397年)、文明13年(1481年)などたびたび火災にあっており、創建当時の
建物は残っていない。
<方丈>
重要文化財。室町時代の建物で、もと広島の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長四年(1599年)に建仁寺に移築したもの。創建当初は
?葺であったが、1736年に瓦葺きに改められた。建物の外周すべて建具が入り、壁が少ない構造のためか、1934年の室戸台風で倒壊
し、1940年に創建当初の?葺で復旧された。その後1962年に銅板葺きに改められていたが、2013年に?葺に復した。
各室には桃山時代の画壇と代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博
物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪によりる障壁画『生生流転』(しょうじょうるてん)『伯楽』『深
秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』(計60面、1940年完成)が設置されている。
栄西(ようさい/えいさい) 出典:ウィキペディア
永治元年4月20日 - 建保3年7月5日(1141年5月27日 - 1215年8月1日)
栄西(えいさい、ようさい、永治元年(1141年) - 建保3年(1215年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧である。明菴 栄
西(みんなん えいさい、みんなん ようさい)とも呼ばれる。臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。また、廃れて
いた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。生年には異説がある。生地は備中国賀陽郡(岡山県加陽郡は現在加賀郡吉備
中央町)。
永治元年(1141年)吉備津神社の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。曽祖父は薩摩守貞政。誕生地は、賀陽町(現岡山県加賀郡吉備中
央町上竹)という説もある。『紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子・重源の弟とする説を載せているが、こ
れは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではない
と考えられている。
久安4年(1148年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。久寿元年(1154年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。
以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
仁安3年(1168年) 形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平氏の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年
寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を
用いることを決意し学ぶこととなった。
文治三年(1187年) 再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
建久二年(1191年) 虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。 福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後
を中心に布教に努める。建久5年(1194年) 彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
建久6年(1195年) 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。 同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。
栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。建久9年(1198年) 『興禅護国論』執筆。 禅が既存
宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得よう
とした。
正治二年(1200年) 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。建仁二年(1202年) 源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。 建仁寺
は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。建永元年(1206年) 重源の後
を受けて東大寺勧進職に就任。
建保元年(1213年) 権僧正に栄進。鎌倉幕府2代将軍源頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。建保3年(1215年) 享年75(満
74歳没)で病没。終焉の地は鎌倉と京都の二説がある。『吾妻鏡』によれば結縁を願って鎌倉中の人々が集まり、源実朝の代理とし
て大江親広が臨終に立ち会ったという(建保三年六月小五日癸亥条)。
いくら何でもこんな頭の奴おらんやろ! ロボットじゃあるまいし。
<他者からの栄西観>
日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に
尊敬し、夜の説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。
なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最近の研究では会っていないとされる。
<主な著作>
●誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折書いたと見られ、現在も同寺が所蔵(九州国立
博物館寄託)。
●『喫茶養生記』 - 上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在
の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)と
いう別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」
を完本の成立とするが、定説はない。
●『無明集』 - 密教について問答形式で書かれた入門書で安元3年(1177年)に誓願寺で書かれたもの。治承4年(1180年)に写さ
れた写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。 大須観音は『無明集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通
なども所蔵する。
「竹林七賢図」「花鳥図」「琴棋書画図」「雲竜図」「山水図」は、海北友松一派の筆になる方丈旧障壁画であり、襖絵から掛軸に
改装されている。
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海北友松(かいほうゆうしょう) 出典:ウィキペディア
海北友松、天文二年(1533年) - 慶長20年6月2日(1615年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。海北派
の始祖。姓は源氏、友松は字。近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」。「紹益」とも。「如切斎」「有
景斎」などと号した。子に同じく絵師の海北友雪。
浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文四年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で
修行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に
浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩
年は画業に専念した。
その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。作品は大
画面の水墨画が多いが金碧濃彩の屏風絵もある。八条宮智仁親王や亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しか
った。また、交流のあった斎藤利三(明智光秀の重臣)を謀反人でありながら手厚く葬り(磔にされていた利三の遺体を友松が槍を
振って侵入して奪い取ったともいわれる)、後に息子の友雪は、利三の娘である春日局から褒賞を受けている。
墓所は京都府左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。
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<風神雷神図(国宝)>
俵屋宗達筆。金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神を描く。たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神
のダイナミックな動きを感じさせる。印も落款も無いが、俵屋宗達の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託され、常時
の公開はされていないが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができる。元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋
十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された。
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ほな、雷ちゃん風ちゃん、バヒバヒ。 果たして京都で会えるかねぇ。
邪馬台国大研究/博物館めぐり/建仁寺栄西展