Fool on the Hill


日本の記録で最初に邪馬台国の記事が現れるのは日本書紀である。神功皇后記であるが、ここでは卑弥呼を神功皇后と比定し、邪馬台国は大和であると示唆している。
大和説は、一般に近畿説とも言われるが若干意味が異なる。近畿説は文字通り近畿一円を指すのであって、その範囲は大阪や京都、滋賀、和歌山も含んでいる。しかし大和説 と言う場合には殆ど奈良県を指す。周知のように、大和朝廷は平安京に遷都するまでその都は専ら奈良県内であった。神武天皇の橿原宮に始まり幾度となく遷都を繰り返すが いずれも奈良県内が主である。従って、ここで取り上げる大和説も、邪馬台国=奈良県説と考えて頂きたい。

邪馬台国問題は、3世紀頃の国際情勢や我が国の国土・風俗等の解明もさることながら、一番の関心は位置の問題である。即ち、一体何処にあったのか? という事である。
見てきたように、今日では実に多くの比定地が存在しているが、それは魏志倭人伝の記事が多くの問題点を内包している事による。倭人伝は、魏の帯方郡を起点として邪馬台国に至るまでの方位と行程を記録して いるが(図1:魏志倭人伝による邪馬台国までの行程:参照)、里数と日数が混載されているのである。不弥国までは、だいたい現在の地名で残っている対馬や壱岐、博多湾沿岸に比定できると考えられているが、不弥国 から先、投馬国と邪馬台国までが、里数ではなく方位と日数で記録されている。不弥国からは、「南へいけば投馬国となる。水行20日を要する。・・・・。更に南へいけば邪馬台国へ至る。女王の都がある所である。水行10日、 陸行1月である。」と記載されているが、この『水行10日、陸行1月』をどう解釈するかで邪馬台国の位置は大きく異なってくる。水行すれば10日、陸行すれば1月、と読むか、水行して10日かかり、更に1月陸行が必要である、 と読むかの2通りの解釈がある。また、今日の常識から見れば、不弥国から30日あるいは60日間南へ進めば、鹿児島県を通り抜け南方海上へ出てしまう。(魏の使いはのんびりと九州を南下したので、30日かかってもまだ熊本県にいたのだ、という人もいる。) これでは陸行すべき陸地もなく、戸数7万戸という邪馬台国をどこで探せばいいのだ、という事になる。
そこで倭人伝の記事のここは誤り、これは誇張されている、という解釈が発生する。九州説と大和説の違いも、この解釈の違いであり、ここでは大和説主張の概略を幾つか紹介したいと思う。

【方角について】
不弥国からへ行くと投馬国、更にへ行くと邪馬台国。このの誤り。投馬国は今の山口県防府市。瀬戸内海を船で行き、10日後山陽の何処かに上陸し、陸を1月で大和に達した。(内藤虎次郎)
投馬国からの水行10日陸行1月は、水上を行けば10日、陸上なら1月と言う意味である。不弥国からの水行30日は、平安京から太宰府までの公定所要日数が30日である事から、大和説を裏付ける。(三宅米吉)
不弥国から東へは船で行った。瀬戸内海以外に日本海ルートもあった。投馬国は瀬戸内海ルートでは広島県もとであり、日本海なら出雲(島根県)か但馬(兵庫県)であろう。(笠井新也)
倭人伝の編者陳寿は、日本列島を東西に延びているのではなく南北に延びていると思っていた。従って、大和を不弥国から東なのに南と思いこんでいたのである。行程を考えれば邪馬台国は当然大和となる。(三品彰英)


【遺跡遺物について】
三国時代の鏡は畿内の前方後円墳や円墳から多く出土する。九州は、その前の鏡は出るが魏時代のものはあまりない。卑弥呼が魏から鏡を貰ったのは景初三年であるから当然卑弥呼は畿内に居たと考えるべきである。(富岡研三)
三国時代には九州の文化所産は貧弱となり、畿内の古墳の方が副葬品がりっぱである。また畿内の古墳からは一つの古墳から多くの舶載鏡が発見されており、文化的に畿内の方が進んでいる。当時の中国と交通があった事が、この文化の進展を促したのである。従って、卑弥呼も大和朝廷の権力者の一人であった。(梅原末治)
卑弥呼が魏から貰った銅鏡は三角縁神獣鏡と呼ばれるものであるが、これは畿内から多く出土する。九州や関東でも出土するので、古墳時代の前、即ち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。邪馬台国は大和にあった証拠である。(小林行雄)。

	【その他の見地より】
	邪馬台国には28カ国が従属しており、これは中央集権的な体制が進みつつあった事を窺わせる。邪馬台国の官は4段階で他
	の國は2段階であり、邪馬台国は一段上の位置にいた。この勢力が大和朝廷へ移行したと考えれば邪馬台国は大和にあったと
	考える方がよい。(上田正昭)
	言語学の立場から見ると、邪馬台のトと九州山門のトは、奈良時代の音韻法則から言えば異なっていて一致しない。言語学的
	には大和説の方が有利である。(大森志郎)



	【大和説への反論】

	と間違えたと言うが、続けて2回も南と記載されているのはどうしてか?(白鳥庫吉)
	古墳の成立は4世紀初め、遡っても3世紀終わりであり、卑弥呼の時代にはまだ古墳はできていない。従って魏鏡が古墳
	からでたと言っても意味がない。
	邪馬台国=大和朝廷とすれば、卑弥呼は皇室の天皇という事になるが、3世紀に女性の天皇がいた証拠は何もない。
	(津田左右吉)
	既に大和朝廷が日本を支配していたのなら、邪馬台国の南にあったという狗奴國との戦いを魏に訴えたりしないだろう。
	そんなに非力では無かったはずである。(坂本太郎)



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