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大和説と違って、邪馬台国九州説には実に多くの比定地がある。沖縄県を除く九州全土に比定地があるが(最近沖縄説も登場したらしい)、その内有力なのは幾つかである。古くは、福岡県山門郡或いは熊本県菊池郡山門に比定する説が多かったが、これは邪馬台(ヤマト)の音と山門の音が似ている事から来ている。九州の中で邪馬台に似た地名としてまずここが浮かんだのであろう。しかし最近では、音韻よりも複合的な条件で比定地を定める科学的な方法が多くなっている。

魏志倭人伝の一文字一文字を詳細に調べ、その中国での用法と事例とで邪馬台国を博多湾岸とした古田武彦や、コンピュータを駆使して地名の残存度を調べたり、天皇の在位期間を統計手法により求めたりして邪馬台国=甘木説を発表した安本美典などは、そのはしりである。

あまりの比定地の多さに、かって大和説論者から「まず九州論者間で比定地を定められたらいかがですか。」と揶揄された九州説であるが、最近は、福岡・佐賀・大分(一部熊本も含む)の北部九州であろう、と言う事になっている。
それは主に以下のような理由による。

@まず何と言っても大陸に近い事。近ければ近いほどその文化・風俗に触れる濃度が濃いはずである。
A最近の考古学上の発見は、特に北九州において目覚ましく、3世紀の北九州における繁栄を彷彿とさせるものが多い事。
(佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡、福岡県甘木市平塚川添遺跡等)
B古事記・日本書紀を初めとする古代の記録・神話や天皇家の神事に、北部九州の事跡や風俗と似通ったものが多い事。
(神話に登場する回数では、出雲地方が筑紫に次ぐ)
C古代の人口研究によれば、九州における縄文から弥生に掛けての人口密度は有明海沿岸及び筑後川沿岸に集中している事。又江戸時代・明治時代においても、福岡市などより九州中部(嘉穂郡、朝倉郡、筑紫郡等)の方が人口が多い事。
(小山修三:Jomon Subsistence and Population「Senri Ethnological studies」、福本誠:筑前志「国文社刊」、貝原益軒:筑前続風土記「福岡藩」)

従って、ここでは邪馬台国=北部九州説について幾つかの主要な説を紹介する。北部九州以外の比定地についての説に興味がある方は、参考文献の中から或いはその他の資料にて各自研究されたい。



【方角について】
倭人伝には、不弥國の南に邪馬台国はあると記されている。不弥國を九州とする説には大和論者も一致しており、それなら邪馬台国は九州である道理である。又倭人伝には、邪馬台国は気候は温暖で、会稽・東治(今の中国河南地方、東シナ海に面している)の東にあるとも記されており、 邪馬台国=九州とすれば全てが符号する。不弥國から邪馬台国までは1300里であり、不弥國を中心に円を描けば半径1300里の中に畿内はとうてい到達しない。邪馬台国は狗奴國の北に位置するが、クナ國はクマソの事である。クマソとは熊蘇國の事で、クナ(球磨)とアソ(阿蘇)が合わさって 転訛したものであり、クマは球磨川としてアソは阿蘇郡として現在も残っている。狗奴国の官の名前、狗古智卑狗は菊池彦であり、今も菊池川・菊池郡として残っているので、その北側に邪馬台国が存在したとすれば、邪馬台国は筑後の山門郡という事になる。(白鳥庫吉)
倭人伝の、「女王國の東、海を渡ること千余里にして又國有り。皆倭種なり。」という記事の倭種(倭人)とは大和朝廷支配下の近畿地方であり、邪馬台国は北九州にあったのである。(岩井大慧)
邪馬台国は筑後の山門、投馬國は筑後の妻にあった。卑弥呼の時代には、大帯郡の使者は大和の事など知らず、ずっと後大和朝廷の時代になって、大和までの行程を陳寿は邪馬台国への行程と思いこんで倭人伝に書いたのである。陳寿は、大和を邪馬台国、出雲を投馬國と思いこんでいた。(橋本増吉)
魏の使者は伊都國に常駐しそれ以遠の土地には足を踏み入れていない。それ故に、倭人伝に記載されている方法が異なっている。即ち、伊都國までは方位・距離・到着國名の順番だが、そこから先は方位・到着國名・距離の順番になっている。これは交通の手段が大きく代わった事を示している。 即ち邪馬台国への、南水行10日、陸行1月というのは伊都國からの日数である。更に、南水十日陸行一月というのは、水行すれば10日、陸を行けば1月という意味であり、陸行1月というのは倭人伝の伊都國から邪馬台国までの1500里と一致する。このように解釈すると倭人伝の文章は素直に解釈できる。 投馬國は大隅・薩摩または日向(宮崎県)の都万神社付近である。投馬國は伊都國から水行20日、邪馬台国は伊都國から水行10日であるから、邪馬台国は有明海・島原湾・八代海岸の沿岸地方という事になり、筑後の山門郡が最適である。(榎一雄)
倭人伝での南北の軸は実際より5-60度西に向かってずれている。従って、奴国の南にあるという投馬國と邪馬台国は、博多の東南または東南東に求めなければならない。奴国から1400里で邪馬台国なので、この方位と日数で探せば邪馬台国は大分県宇佐郡小向野地方が最適となる。又この地方はかって ヤマト、山戸、大和などと記された事がある。不弥國からは、宝満川、筑後川、宇佐川の河川航行と陸行を繰り返し邪馬台国に至ったのである。海上航行をしたのなら、倭人伝には「又一海を渡る。」と書かれるはずであるが、水行というのは川を航行したという意味である。女王國の東に、千里余り海を渡ると又倭種がいる とあるが、大和=邪馬台国だとすれば伊勢湾を突っ切って太平洋へ出てしまう。その点宇佐なら、東は四国の伊予(愛媛県)であり倭種の國にぴったりである。(富来隆)

	【邪馬台国東遷説の立場から】

	
	栄えていた邪馬台国が征服されたような伝説は存在せず、邪馬台国の名は突如として消え、代わりに大和朝廷が全国統一の勢力
	を急に拡大する。ヤマトという名称は九州に起源を持ち、国家を統一した勢力は九州の邪馬台国から来た事を窺わせる。弥生時
	代の、近畿圏での祭祀に用いられたと思われる銅鐸は、大和朝廷成立後我が国の歴史に一切現れず、代わって九州地方の祭器・
	神器であった銅矛・銅剣・銅斧などが神話に登場している。剣は、天皇家の三種の神器の一つにまでなっている。もし天皇家が
	近畿圏で発生し、邪馬台国から大和朝廷へ発展したのならどうして銅鐸の記憶が人々の頭から消えてしまったのか。
	邪馬台国が九州から来て大和朝廷を樹立し日本を統一した、と考えるのが妥当である。(和辻哲郎)

	
	卑弥呼は北九州時代の大和朝廷の女王であった。この國はおそらく狗奴国(熊襲)の襲撃を受け4世紀の初め頃に大和へ東遷
	した。大和で勢力を蓄えた朝廷は熊襲を倒し北九州を確保した。この、九州にあった國が中国から見た邪馬台国であろう。4世
	紀中頃、朝廷は応神天皇の元で朝鮮経営に乗り出したがやがて卑弥呼の記憶も応神天皇の記憶も曖昧となり、やがて大和から九
	州へ里帰りするような時代になると、人々は神功皇后と卑弥呼を同じ人物と見なした。それで日本書紀は卑弥呼を神功皇后であ
	るとほのめかしているのである。(井上光貞)

	
	邪馬台国は今の福岡県甘木市・朝倉郡地方にあった。この地方は北九州の中でも考古学上遺跡遺物の豊富な所であり、
	九州大学考古学の教授であった鏡山猛氏も「朝倉は筑紫の宝庫」である、と述べている。又、甘木・朝倉地方の地名は、奈良盆
	地の地名と一致しており、名前だけでなくその方位まで驚くほど一致している。またこの地方には、記紀の神話に出現する固有
	名詞と同じ地名が多く残っている。天の安の河(安川)、高木の神(高木)、奈良原(楢原)、美奈誼(三奈木)等。これは、
	この地方の勢力が大和へ東遷し、やがて大和朝廷を樹立した事を示している。そのため、この地方の地名と大和の地名が一致し
	ているのである。(安本美典)

 邪 台 國 


	【九州説への反論】
九州には考古学上の遺跡が少ない。特に三種の神器の一つである鏡は近畿地方から多く出土し、九州からはほんの数枚し か出ていない。倭人伝には、卑弥呼は魏から銅鏡100枚を貰ったとあるが、その多くは大和を中心にして広く畿内に分布し たものと見るべきである。それ故に、同はん鏡(同じ鋳型から作られた兄弟鏡)が近畿の各地から出るのであって、邪馬台 国=九州なら九州から鏡がもっと出土するはずである。(小林行雄) ヤマトは元々大和地方の呼び方であって、古くから奈良を中心に栄えてきたのである。歴史的に文化的にも大和が日本の中 心として栄えてきたのであって、九州地方には3世紀当時7万戸を擁するような場所は無い。山門郡にしても宇佐にしても 狭小な所で、でとても邪馬台国があった所とは認めがたい。(肥後和男) 倭人伝の記事によれば、距離的にも邪馬台国は大和である。九州の中にこれを求めようとすれば、遠く南方海上まで行って しまうので大和と考える方が妥当である。(内藤虎次郎) 反政治・反政府・反東京・反独占資本の気風が、現在の九州説の背景を為している。現代の政治への批判が、古代の政治の 中心が終始畿内にあったとする歴史観の批判という屈折した形をとって現れているのが九州説である。九州説の論者には案 外保守的な人が多い。簡単に九州説を神武天皇の東征に結びつけ、天皇中心の記紀史観から一歩も抜け出していない学説 が目に付く。(直木孝次郎)
邪馬台国大研究・ホームページ / INOUES.NET / 邪馬台国九州説