18. 邪馬台国周辺の考古学 −その5−


	6. 伊都国の考古学


	1.魏志倭人伝

	東南へ陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う。千余戸有り、世々王有る
	も、皆女王国が統属す。郡使が往来するとき常に駐まる所なり。 
	東南へ陸を行く事五百里で伊都国に到る。長官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々が住んでお
	り代々王がいるが、皆女王国に統属している。帯方郡の使者が常駐している所である。
	(そこから東南の方角へ行くと奴国に至る。)
	伊都国の記述はそれまでと異なる点がいくつかある。まず、「東南」と方位があり、「陸行」している。末廬国にはなか
	った官名があり、それは、対馬国・一大国とは異なる。またなんと読むのかもはっきりしない。「代々王がいる。」「女
	王に従属している。」「帯方郡の使者が常駐している。」これらは、これまでの大雑把な記述からすればかなり詳細な情
	報といえる。
	末廬から糸島地方は東にあたり、「陸行する」事を考えると、末盧国から伊都国へは水行では行けないということを意味
	しており、伊都国は内陸地にあった国であるという説もある。つまり現在の糸島地方(前原市を中心とする旧糸島郡・福
	岡市西部)は、末廬から東南ではなく、海路によってもいけるではないかと言うのだ。また唐津と前原では長里説(20
	0km)でも短里説(50km)でも五百里にはほど遠いとする。(唐津−前原間は約27km)。しかし、東南には
	「イト」と呼ぶ地方はないし、古名にもない。さらに、見てきたように倭人伝の里数がかなり大雑把であることを考えれ
	ば、伊都国は糸島地方としていいのではないかと思う。陸行については、伊都国から更に内陸部へ向かうことを考えれば、
	ここらから(末廬)陸上を行ったと解釈しても特に問題はないように思う。旧糸島郡は、前原町のあった南側地域を怡土
	郡、北側地域を志摩郡といったが、明治29年合併して糸島郡となり、さらに平成4年(だったかな?)市制を敷いて前
	原市となった。この前原市にある、「三雲、井原、平原付近」が伊都国に比定されている。この地域には標高416mの
	高祖山があり、456年から768年、大和朝廷の命によって吉備真備が対新羅戦争のために怡土城を築いたことで知ら
	れている。
	「官は爾支。副は泄謨觚.柄渠觚。」というこの官名については不詳な部分が多い。「爾支」は「ニキ、ジキ、ニギ」などと
	呼ばれ、「泄謨觚」は「シマコ、セマコ、セモコ、イモコ」など、「柄渠觚」は「ヒココ、ヘクコ、ヒホコ」などと、注釈される
	がその他にも色々に読め、後の日本語に対応しているようなものは見あたらない。「彦」や「妹子」などの「子」とも関連する
	ような気もするが、実態は不明である。伊都国の戸数「千余戸」は、この国の重要度からみて少なすぎるのではないかと
	いう説がある。「戸万余」の間違いではないかと言うのだが、魏の使者が常駐したり、代々王がいたり、という国の規模
	からすれば確かに少ないかも知れない。しかし王が居ればこそ、ここに住める一般人は限られていたと想像する事もでき
	る。「王」の存在が明らかなのは、この伊都国と邪馬台国と狗奴国の三国だけである。「世々王有るも、皆女王国に統属す」
	とあるように、伊都国は古くから卑弥呼を支えていた主要国と見ていいだろう。だからこそ、「郡使が往来するとき常に
	駐まる所。」という、邪馬台国連合国家の中で、外交的に重要な役割と地位を占めていたとも考えられる。

	倭人伝には、伊都国以前は方角、距離、国名と順に記されているのに対し、伊都国以降は方角、国名、距離の順に記載さ
	れており、距離と国名の順序が入れ替わっている。このことを指摘したのは榎一雄氏であるが、その提唱の要旨は「倭人
	伝は、伊都国まで連続に末盧国、伊都国、奴国と読み進む形式で記されているが、伊都国以降は、奴国、不弥国、投馬国、
	邪馬台国と、伊都国を起点として読み進められるべきだ。」というものである。これは「放射説」と呼ばれ、あたらしい
	倭人伝の解釈として脚光を浴びた。邪馬台国に次ぐ重要な地位を占めている(と思われる)伊都国から、魏使は様々な国
	を訪問したという考えに基づく。これは一考を要していい説であろう。
	私は大学時代を博多で過ごしたせいもあって、この伊都国該当地である糸島地方には友人が多い。学生時代もよく遊びに
	行って、車窓から見る玄界灘の波を見つめては波の向こうに思いを馳せたものである。難儀をしてやっと伊都国に辿り着
	いた魏の使者は、どんな思いでこの糸島平野を歩いていったのだろうか。




	2.伊都国の古代

	かっては、古代の糸島半島は、海に突き出ている「志麻(しま)郡」と内陸部の「怡土(いと)郡」とに別れていて、ふ
	たつの地域は「糸島水道」によって分断されており、志麻郡にあたる部分は島であったと考えられていた。しかし最近の
	縄文時代の海面変動の分析や地質調査、海生動物の化石分布調査、遺跡発掘調査の分析などから、上図のように、縄文時
	代以後の糸島半島は、泊−志登間では、南北に陸地としてつながっていた可能性が高いとされている。怡土と志麻が元来
	陸続きであったとすると、泊−志登地区が両地を結ぶ橋の役目を果たすとともに、東西から入り込んだ湾の接点に位置し
	ているため、伊都国の海の玄関口として重要な位置にあった事が推測できるのである。





	(1).前原市(旧糸島郡)

	福岡県西端に位置する前原市は、南に脊振山系の雷山、井原山を望み、北に糸島富士といわれる可也山と海という豊かな
	自然に囲まれ、近年までは糸島郡前原町として、静かな田園地帯であった。古代史上有名な「魏志倭人伝」による「伊都
	国」の所在地という他は、さしたる産業も工業もなく、鄙びた農村地帯の典型のような所であった。
	それが市制を引いた平成4年頃から、拡大する福岡都市圏のベッドタウンとして、急速に成長を遂げてきた。市内の就業
	者の約半数が福岡市内へ通勤している現在、ベッドタウン化は今後ますます拡大していくものと思われる。相互乗り入れ
	している福岡市営地下鉄で今回ここまで来たが、学生時代に何度か訪問した「糸島郡前原町」とは全く様相が変わってい
	た。マンションが立ち並び、スーパーや商店が軒を並べて、町はすっかり変貌を遂げていた。
	弥生時代には、縄文式土器に比べて、複雑な意匠や土器表面の紋様はなくなり、すっきりした実用的な土器が使われるよ
	うになった。従来からの説に従えば、弥生時代は、紀元前3世紀から3世紀ごろまで約600年間続くが、この時代は、
	稲作農耕の開始と金属器の使用という2つの大きな特色を持ち、これらの文化は、渡来人による大陸からの伝来といわれ
	ている。

	(2).三雲・井原遺跡群

	前原市の東部、瑞梅寺川と川原川にはさまれた地域には弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が密集している。三雲・井
	原遺跡群である。この遺跡群には伊都国の王の墓とされる三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡、古墳時代前期の前方後円墳で
	ある端山古墳や築山古墳などの重要な遺跡が含まれる。ここは弥生時代から古墳時代にかけての伊都国の王都であった。
	この遺跡からも中国製銅鏡が数面出土している。しかし、発見されたのは今から約200年ほど前で、現物は四散して残
	っていない。発見の記録だけが現存する。したがって遺跡の位置も、一応の推測地はあるが不明である。
	糸島は、地理的には中国大陸・朝鮮半島とは「目と鼻の先」にある。糸島の先人たちが、比較的早い時期からこの新しい
	文化に接し、それを受容して来たことは容易に想像できる。糸島では大陸・朝鮮からの渡来人もしくは渡来系集団とかか
	わりをもった遺跡・遺構を多く見い出すことができるが、ドルメンもその一つである。ドルメンは、朝鮮半島に多く見ら
	れる古代墓制の一つで、重さ1〜2トンほどの巨石を、人の頭ほどの石で支え、その下に死者を葬るという構造の墓であ
	る。この特異な形式の墓は、わが国では縄文末期から弥生時代前期ごろのもので、北西部九州沿岸一帯に多く見られる。 




	3.伊都国の遺跡

	(1).縄文貝塚

	この地域の、縄文時代の代表的な遺跡としては「天神山貝塚」があげられる。糸島郡志摩町芥屋にあり、黒褐色の縄文土
	器や、動物の骨を加工して作った釣り針、ハイガイやハマグリなどの貝類で作った装身具、土器片その他を出土している。
	他にも、糸島水道を挟んだ地域、即ち志摩町と対岸の前原市・福岡市西区などに、「御床松原・道塚・魚津・川付・小蔵
	・飛櫛・瓜生」などの貝塚が点在している。この中でも御床松原貝塚は、遺物としては縄文前期から中期までの遺物があ
	るが、中国「新」の貨幣である「貨泉」が出土したことで注目を浴びた。貨泉は経2.25cmの王莽(おうもう)銭である。
	新の王莽が紀元14年に発行したことがわかっている。卑弥呼の時代より200年ほど前である。
	貨泉の出土地は、外国では、新疆ウィグル(中国)、楽浪遺跡(北朝鮮)、金海貝塚(南朝鮮)、済州島があり、日本列
	島においては、壱岐の「原の辻遺跡」、近畿の瓜破(大阪)、函石浜(京都)、巨摩(東大阪)、亀井(八尾)、船橋(
	柏原)などが知られている。また御床松原貝塚からは、貨泉より200年ほど前の前漢の「半両銭」も出土している。
	なお、奴国の「仲島」(福岡県大野城市)からは、貨泉と同じ新の貨幣である「貨布」がでている。朝鮮・中国との関わ
	りがどのようなものであったのか興味は尽きない。
 





 


	(2).志登支石墓群 (国指定史跡)

	ここ前原にも、「伊都国」以前、おそらくは朝鮮半島から渡ってきた人々が葬られたと思われるドルメンがある。ドルメ
	ン、即ち日本語で言えば「支石墓」(しせきぼ)である。この地方にはいくつかの支石墓群が存在しているが、志登(し
	と)支石墓群は、糸島平野のほぼ中央、古代糸島水道跡の低地の中でも、比較的小高いところの標高5〜6メートルの沖
	積台地にある。周辺の水田面よりおよそ1m内外高い場所に10基の支石墓が、1、2mの間隔を置いて配列されている。
	昭和27年(1952)、地元の考古学者原田大六が35歳の時発見し、昭和28年(1953)福岡県文化財保護委員会に
	よって、支石墓四基、甕棺八基が発掘調査された。発掘調査の結果、朝鮮半島南部に多い「基盤形支石墓」であることが
	判明した。
	支石墓は1〜3個の支石に、径1.5〜2m前後、厚さ50cmほどの平たい石や亀甲状の大石が。支石墓の上下となっている。
	下部構造は魂石によって長方形の石かこいをしたものと、浅い土壙をもつものであった。副葬品として、黒曜石製石鏃六、
	朝鮮製と判断される磨製石鏃四が出土した。上石の巨石は玄武岩と花崗岩が使用されている。「可也山」から運んだので
	はないかとされている。甕棺は単棺・合口甕棺、坏や浅鉢を蓋としたものであったが、土器の形成から弥生時代前期〜中
	期のものと比定される。
	可也山は糸島半島の西にあり、標高365m。「糸島富士」「筑紫富士」「小富士」とも呼ばれている独立峰であり、半
	島内で最も高く、半島のどこからでも、その秀麗な山容を眺めることができる。可也山はかっては火山であり、大部分が
	花崗岩で、山頂部は玄武岩である。志登支石墓群からの見る可也山が最も美しいと言われる。可也山の花崗岩は質が良く、
	黒田長政が東照宮の鳥居として献上した大石を切り出した跡が残っている。糸島半島は古代から朝鮮半島と繋がりの強い
	ところであり、可也山という呼び名も「伽耶(かや)」国と関係があるのではないかとも言われる。

	発掘では、弥生早期から中期(約2500〜2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、
	支石墓のうち4基が調査された。地表に1枚の大きな石を置き、その下を数個の塊状の石で支え、そこに甕棺(かめかん)
	や土壙(どこう)・石室などをつくり、その中に死者を埋葬している。上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長
	さ約200cm、幅約150cm、厚さ約60cmにも及び、埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺であったと考えられる。
	副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃4点が出土している。支石墓に副葬品が納め
	られている例は非常に珍しく、特に柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語る貴重な資料である。使用した石は
	4km先の可也山から運ばれたと推測され、最大のものは5トン以上もある。

 

志登支石墓群

 

 

 



	4.伊都国の弥生遺跡

	伊都国が、歴史上特筆すべき存在となるのはなんと言っても弥生時代である。伊都国という名前の初現も魏志倭人伝の中
	であるし、帯方郡使や魏使が常駐していた都でもある。また奴国、邪馬台国と並んで、倭人伝にはっきり王がいると記載
	されている希有な例でもあり、見ていくような豊富な考古学的資料も、この地域が古代、並の存在ではなかった事を予感
	させる。邪馬台国や魏志倭人伝について語るとき、この伊都国を抜きにしては語れないのである。








	(1).三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)

	この遺跡は江戸時代の文政5年に発見された。発見当時の様子を記録した『柳園古器略考』(青柳種信著)には、甕棺の
	大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」であり、高さが90cm以上、胴の直径が60cmほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺
	が二つ、口を合わせて埋められていた(1号甕棺)と書かれている。中からは銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1
	個、ガラスの璧(へき)8枚、金銅製金具などが出土している。これらの出土品は殆どが現残していないが、わずかに銅
	鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられており、国の重要文化財に指定されている。出土した甕棺からこの墓は弥生
	時代の中期後半(約2000年前)に造られたものと考えられる。

	最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見さ
	れた。2号甕棺も、高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な甕棺二つを口を合わせて埋めたもので、これも盗掘されていた。
	副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製の勾玉1個、ガラス製の勾玉1個、ガラス製の管玉2個、ガラス製の垂飾1個など
	が出土している。また、1号甕棺の破片や副葬品の銅鏡の破片多数、ガラス製の璧も出土し、新たに金銅製の四葉座飾金
	具が出土した。銅鏡はすべて中国製で、1号棺、2号棺からの前漢鏡を合わせると60面近く出土している。
	この時の調査では、2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発見されており、甕棺は墳丘の中に
	埋葬されたと考えられる。墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大な
	ものである。墳丘内には他に墓が無いので、この巨大な墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものと考えられる。
	また、副葬品の内容から、ここは王と王妃の墓であろうとされている。三雲南小路遺跡の南端の所に井原鑓溝遺跡(推定
	地)があり、後漢鏡が20面くらい出土している。この遺跡は、末廬国の桜馬場遺跡(佐賀県唐津市)とはぼ同時代と見
	られている。そして、その後の時期の王墓とされるのが、平原遺跡である。方格規矩鏡、内行花文鏡の組み合わせから、
	後漢中期の組み合わせだろうとされ、それは邪馬台国の時代に相当する。伊都国の王墓は、三雲、井原、平塚と変遷して
	行くというのが定説だが、卑弥呼出現の1世紀終わりには、平塚が伊都国の王都だったという事になる。そして倭人伝に
	いう「世(々)王あり。」という記事とも合致する事になる。

 
伊都歴史資料館の甕棺(三雲南小路遺跡)

	三雲南小路遺跡の発掘に携わった柳田康雄・前九州歴史資料館副館長によると、直径27.3cmの大型鏡(重圏彩画鏡)は
	中国でも王侯クラスが保有するもので、金銅製四葉座飾金具やガラス璧は、皇帝が身分の高い臣下に葬具として下賜する
	ものだという。つまり紀元前後の段階で、伊都国王や奴国王が、前漢に入貢して銅鏡などの下賜を受ける冊封(さっぽう)
	体制に組み込まれていたことを意味する。これは『漢書』の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て
	来たりて献見す」(地理志)、「東夷の王、大海を渡りて国珍を奉ず」(王莽伝)という記述に対応する。三雲南小路、
	須玖岡本の被葬者は、当時の倭の100余国の中でも頂点に立つ、倭国王というべき存在だったのかもしれない。

	資料館にある、この遺跡から見つかったかめ棺は大人がふたり入るほど大きなものである。王墓とすればはやはり特別に
	大きな甕棺に葬られたのだろう。中から出土した中国製銅鏡、勾玉や銅剣などの遺物を見ても、三雲南小路遺跡に並ぶも
	のは須玖岡本遺跡(春日市)以外にはないことから、王墓とみて差し支えなさそうだ。倭人伝には、(帯方)郡使の往来
	常に駐(とど)まる」と記録されているし、伊都国王は他の地域の王とは比べものにならないほど強大な権力を持ってい
	たと考えられる。現在、遺跡は埋め戻されているが、説明板が設置されており、出土品の一部は伊都歴史資料館に展示さ
	れている。 


銅鏡(重要文化財) 銅剣(重要文化財)

 
飾金具 ガラス璧


発掘調査風景(1号甕棺跡:右と2号甕棺:左)



なお、伊都歴史資料館は、2004年新しく新館がオープンし、
その展示内容もさらに充実しているようだ。また行かねばならない。


伊都歴史資料館・新館


	(2).井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき) 

	江戸時代の天明年間(1781〜88)、筑前国怡土郡井原村の鑓溝(やりみぞ:現福岡県前原市井原)という所から銅鏡を多
	数副葬した甕棺が発見された。これが井原鑓溝遺跡である。このとき発見された出土品は現存しないが、図面が『柳園古
	器略考』(青柳種信著)に記録されている。これは主に文政5年(1822)に三雲村で発見された三雲南小路遺跡1号棺の
	調査報告書だが、種信は40年前に隣村で発見された井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行い、農民が保管していた
	鏡片27、巴形(ともえがた)銅器2の拓本を残している。
	「怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて……溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。
	あやしみ堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きものまた刀剣の類あり。」
	出土した銅鏡はすべて中国製である。拓本から復元される鏡=方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡=は18面で、拓
	本に残された鏡は、多くが1世紀前半の新および後漢初期の製作で、墓の年代はこれにこの鏡が海を越え伊都国に定着す
	るまでの期間を加えたものとなる。それはおおむね1世紀後半〜2世紀初頭の間に収まると推定できる。また、出土した
	豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡(紀元前後)より数代を経た王墓ということになる。柳田康
	雄・前九州歴史資料館副館長は「井原鑓溝遺跡の副葬品からも、弥生後期に後漢から金印を下賜された、倭国王とみなさ
	れる人物は伊都国王をおいてほかにない」とみる。金印が出土した志賀島は博多湾口に位置し、奴国だけでなく、伊都国
	の東の玄関口でもあった。
	現在、遺跡の場所は不明だが、三雲南小路遺跡の南約100 mのあたりに大字井原字ヤリミゾという地名があり、今は一面
	に水田が広がっているが、その下あたりに井原鑓溝遺跡は眠っていると考えられる。前原市教委は大正時代の地籍図から
	字名の語源になったとみられる水路跡を割り出し、1994年から王墓の確認調査を続けている。福岡県教委が74年に
	三雲南小路遺跡1号棺を発見、『略考』の記述を150年ぶりに裏付け、同時に2号棺を新発見したような成果も期待で
	きる。
	前原市教委文化課の岡部裕俊さんは『略考』の〈壺〉という記述に注目する。「糸島地域では後期前半(1世紀)には甕
	棺墓に代わって木棺墓が盛行し、〈壺〉すなわち壺形の大型甕棺が再び見られるのは、後期中葉(2世紀前半)から。
	年代が後期中葉なら、帥升の墓である可能性が高い」。三雲・井原遺跡群の番上地区では、88平方メートルという狭い
	調査範囲(土器だまり)から、灰色で、泥質が特徴的な楽浪系の鉢や筒杯、器台約30点が出土した。武末純一・福岡大
	教授(考古学)は「楽浪系土器が特定個所で集中的に出土するのは国内でほかに例がなく、しかも番上地区では、弥生中
	期後半〜後期にかけて継続している」と注目。「三雲南小路王の出現を契機に、渡来した楽浪人が集団で居住していたこ
	とを示すもの」と指摘する。「三韓系土器が多く出土する奴国が朝鮮半島からの鉄資源入手と鉄器・鉄素材生産で栄えた
	とすれば、楽浪系土器が出土する伊都国は楽浪郡を介した前漢との外交、交易を独占することで栄えた。いわば伊都国は
	前漢と安全保障条約を結び、その後ろ盾により北部九州の国々の連合体の上に君臨したといえる」
	三雲南小路、井原鑓溝遺跡と続く伊都国王の系譜は、平原遺跡1号墓の被葬者に受け継がれる。

 
『柳園古器略考』(青柳種信著)と 井原鑓溝遺跡が眠る水田


	弥生後期の中国鏡出土 伊都国王墓確認へ手がかり 福岡 	
	中国の史書「魏志倭人伝」に記された伊都(いと)国があったとされる福岡県前原市の井原鑓溝(いわらやりみぞ)で、
	弥生時代後期(紀元1世紀ごろ)の中国鏡が見つかったことが、同市教委の調査でわかった。江戸時代に出土品の記録が
	残されていながら未発見の伊都国王墓「井原鑓溝遺跡」確認へ向けて重要な手がかりになるとみられる。 
	出土したのは「方格規矩(きく)四神鏡」1枚分で、約10片に割れているという。江戸時代の学者が記した「柳園古器
	略考」などによると、同じ型式の鏡21枚が出土したという。同市教委によると、出土地点は道路の拡幅工事現場で、鏡
	は水田の1メートルほど下の穴から出土。一緒に約170個のガラス玉も見つかった。周囲には16基の甕棺墓(かめか
	んぼ)や石棺墓も確認された。調査指導委員会の西谷正・九州大名誉教授は「王墓の所在地が絞り込めてきた」という。 
	倭人伝は伊都国に「世々王有り」と記しており、周辺では三雲南小路、平原両遺跡という豪華な副葬品を納めた王墓が見
	つかっている。しかし、時期的にそれらをつなぐ井原鑓溝遺跡の所在は不明で、同市教委では94年から調査を続けてき
	た。【朝日新聞 2005年02月18日(金) 】
 



	(3).平原遺跡(ひらばるせき)  

	昭和40年糸島郡前原町平原(当時)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。偶然の発見
	であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結
	果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原
	田大六は、2世紀中頃であるとしている。遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。この遺
	跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの
	出土数としては我が国最多であった。又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡で、
	日本製で、同型鏡4枚もあった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を
	「伊都国の女王」の墓だと想定している。副葬品の内容は、銅鏡40、素環頭大刀(そかんとうたち)1、ガラス製の勾
	(まがたま)3、管玉(くだたま)30以上、小玉500以上、連玉886個、メノウ製管玉12、耳塘(じとう:ピア
	ス)2などとなっており、これらの出土物は、前原市の「伊都国歴史資料館」にある。
	原田大六が2世紀中頃とした年代は、前原市教委が1999年まで行った再調査で、隣接する2号墓の遺構や土器と比較
	した結果、弥生終末期(2世紀	末〜3世紀初頭)と判明した。この時期の墳墓で1号墓をしのぐ副葬品を持つものは
	国内になく、伊都国は、弥生終末期においても引き続き倭国の盟主たる地位を維持していたようである。
	再調査では1号墓周辺から新たな遺構が確認されたほか、副葬品の詳細な分析も行われ、当時の伊都国を取り巻く状況や
	被葬者像が明らかになってきた。三雲南小路、井原鑓溝(やりみぞ)遺跡に副葬されていた鏡が中国産(舶載鏡)である
	のに対し、平原遺跡1号墓の鏡は、ほとんどが中国鏡を模した国産鏡であることがわかった。柳田康雄・前九州歴史資料
	館副館長によれば、超大型内行花文鏡をはじめ、中国鏡の代表的な型式である方格規矩四神(ほうかくきくししん)鏡3
	2面も含めた計38面が国産という。「陶氏作 大宜子孫 という中国鏡にない銘文があり、中国鏡と逆位置に配置した
	文様があるなど、本来の意義を知らずに模倣しているふしもある。原型から複数の鋳型を製作して鋳造した同型鏡が7種
	類19面もあることからも、渡来工人が伊都国で一括して製造したものではないか」という。

 


	考古学の資料として、伊都国ほど後漢鏡が集中している地域はない。三雲60面、井原20面、平原30面というおびた
	だしい数に上る。これほどたくさんの銅鏡が出土した地域は他にはなく、この時期、近畿地方では2面しか出土例がない。
	同じ北九州でも須玖岡本の奴国においては出土していないので、小田富士雄氏(福岡大学教授)は、2世紀の最初の時期
	には(勢力の中心は)奴国連合から伊都国連合へ移っていたのではないか、と言う。また、壁(へき)と金銅製四葉座形
	金具は、中国王朝が王と認めた所に与えたもので、これは伊都国と奴国(岡本)からしか出土していないので、中国から
	王と認められたのはこの2国だけではないかと述べている。平原遺跡は発掘当時、「王の墓」とか「一大率の墓」ではな
	いかとか騒がれたが、現在では伊都国における弥生時代最後の王墓ということに落ち着いているようである。しかし実際
	現地に来てみると、はたしてここがホントに王墓だろうかという気がする。いくら弥生時代とはいえ、王の墓ならもう少
	し大きくて重厚な物であってもいいような気がするが、弥生時代の国がどのようなものかはっきりとわからない以上、今
	までの発掘で一番副葬品の立派な所を首長の墓とせざるを得ない。
	見てきた遺跡がホントに伊都国王の墓であるとすれば、ここに葬られた彼らのうちの誰かは、卑弥呼と直接言葉を交わし
	たりしたことがあったに違いない。また、魏使や帯方郡使と、この糸島で酒を酌み交わしたりもしたはずだ。女王国の最
	有力盟主国王として、威厳と権力をもって大陸との交渉にあたっていたのだ。







 

 


	(4).今山石斧製造所跡

	九州大学の中山平次郎が昭和の初めに発見した、弥生時代中期の農耕生活に必要な工具を製造していた場所の遺跡である。
	鉄器が普及する前の、弥生人たちの生活道具石斧を、玄武岩を材料として製造していた。玄武岩は堅いがはがれやすい。
	その分布は伊都国のみならず、福岡県糟屋郡、佐賀県にも拡がっている。玄界灘と糸島水道を見渡せる周船寺(福岡市西
	区周船寺)の丸隈山古墳に近い山丘にある。
	鉄器が普及する前の農耕生活が石器に頼っていたことは周知のごとくである。朝鮮半島からもたらされた磨製石器や磨製
	の石包丁、石斧、石鎌などは、日本中の弥生遺跡で見いだすことが出来る。そして、大陸朝鮮からもたらされたそれらの
	農耕具も、やがて当然日本国内で生産するようになる。不弥国に比定される福岡県飯塚市の立岩遺跡でも、同様の製造所
	跡が見つかっている。そこでは粗製造した石器を磨いていた。磨製石器である。朝鮮半島南部と同時代に同文化が存在し
	ているのである。


	(5).最新ニュース

	今年(2004)になって、伊都国の三雲・井原遺跡群からまた遺跡が発見された。今回の遺跡の重要なポイントは、準構造船
	の部材が出土したことである。これにより、古代の伊都国の民が、海洋を舞台に中国・朝鮮半島と交流を持っていた事が
	証明されたし、他にもまだまだ古代船が眠っている期待をつなげてくれた。



	弥生中期の「ブレスレット」出土 福岡・潤地頭給遺跡  2004/03/04 asahi.com 
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	福岡県前原市教委は3日、同市潤の「潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡」の甕棺(かめかん)から、紀元前100年
	ごろ(弥生中期)の青銅製腕輪「銅釧(どうくしろ)」が見つかった、と発表した。大陸文化の窓口だった伊都国が成立
	する前の地域の有力者の副葬品と見られ、地域社会の階層化過程を示す資料としている。 
	銅釧は360基ある甕棺のうち、大きめの成人用甕棺1基から砕けた状態で見つかった。人骨はなかったが、横たわった
	遺体の右手首にあたる位置にあった。幅3ミリ、厚さ2ミリ、直径は推定約7センチの円環形で、3個分が確認された。 
	市教委によると、円環形銅釧は九州北部を中心に21遺跡で出土している。同遺跡では装身具を加工した玉造り工房跡も
	九州で初めて確認されているが、見つかった銅釧は工房ができる前の初期のタイプだった。 
	伊都国の成立過程に詳しい九州歴史資料館の柳田康雄・前副館長は「出土したのは精巧なつくりからみて舶来品と見られ
	る。現在の糸島地方で、いくつかの地域に『クニ』ができはじめた時期。伊都国の王が出現する以前の小首長の墓ではな
	いか」と話している。 
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	潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡/ 福岡県前原市 2003年05月29日 西日本新聞
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	勾玉の加工石、原石など大量出土 前原市・潤地頭給遺跡 『専業職人の存在裏付け』

	弥生時代中期後半以降の「潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡」(福岡県前原市潤)から、古代のアクセサリーの勾玉
	(まがたま)、管玉の原石となる碧玉(へきぎょく)や、勾玉などを曲線加工する筋砥石(すじといし)が出土していた
	ことが二十九日、分かった。同遺跡は、同時代に北部九州で栄えた伊都国の首都で王がいたとされる三雲・井原遺跡群か
	ら近く、同市教委は「伊都国を支えたムラの一つで、装身具工房だった可能性もある」とみている。 
	潤地頭給遺跡は、三雲・井原遺跡群(同市)から北西に約二・五キロの海側に位置している。約八千平方メートルの調査
	区域からは、新たに竪穴住居や倉庫か神殿とみられる堀立柱跡など多数の柱跡遺構と、南側に直線六十メートル、幅四メ
	ートル、深さ一・五メートルの大きな構が発掘された。 
	市教委が注目しているのは、南側大規模溝からネックレスの一種である臼玉、素焼きの勾玉、ガラス製の管玉といった装
	身具が見つかったほか、北側で発見された溝から玉を加工するための筋砥石(長さ約二十センチ)や直径三センチ大の碧
	玉、水晶石十点余が出ている点。砥石中央には勾玉や管玉の曲線を加工する筋があった。 
	同市教委は、これらの遺物から判断して、同遺跡が勾玉などを製造する工房だった可能性をうかがわせると指摘。確認さ
	れれば伊都国関連遺跡では初の工房跡の発見となり、「装身具の専業職人集団を抱えた伊都国の隆盛ぶりを探る貴重な資
	料になる」としている。新設小学校の造成前の試掘調査で遺跡の所在が判明し、同市教委が今年一月から本格的な発掘調
	査を始めていた。  
	ムラ編成知る手掛かり 	<武末純一福岡大教授(考古学)の話>
	クニを支えたムラの一つに専業玉造技術者がいたのか、一般人が製造していたのか、ムラの編成状況を知る上で意義深い
	発見。今後の調査に期待したい。  
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	伊都国の大型船?弥生時代の船の部材が出土…福岡 2004/08/24 読売新聞 Yomiuri On-Line 
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	福岡県前原市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡で、弥生時代終末期(2世紀末)の準構造船の部材が出土したと、
	同市教委が23日、発表した。準構造船は、丸木舟に舷側(げんそく)や船首、船尾に板を継ぎ足した船で、主に古墳時
	代に造られ、外洋航海や輸送用の大型船として用いられた。弥生時代の出土例は極めて少ない。一帯は「魏志倭人伝」に
	記された伊都(いと)国の範囲と推定されており、外交や交易の拠点として栄えた伊都国が高度な造船技術を持っていた
	ことを示す発見として注目される。 
	発見された部材は、丸太をくりぬいた船底部3点と、舷側板1点。船底部のうち1点は、長さ3.1メートル、最大幅82
	センチで、欠損部を補った全長は6―7メートルに達するとみられる。  
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	5.伊都国の古墳


	(1).端山古墳(はやまこふん)・築山古墳(つきやまこふん)

	このふたつの古墳は三雲地区の東にあり、自然の小さな丘のにも見えるが、人力で盛土したものである。前方後円墳だっ
	たと見られるが、現在後円部分しか残っていない。3〜4世紀の築造と思われるが確証はない。もしその年代が正しけれ
	ば、末廬国で見てきた「久里双水古墳」同様、初期の前方古円分の原型かもしれず、そうだとすれば伊都国王の何代か後
	の子孫の墓かもしれない。

	(2),端山古墳
	三雲集落の東の水田の中にある前方後円墳で、もともと前方部が北を向いた古墳だったが、現在前方部が完全に壊されて
	なくなっており、後円部だけが残っている。墳丘は全長約78.5m、後円部の直径約42m、高さ約8m、前方部の長
	さ38m、幅約23mである。後円部は2段に造られており、墳丘の斜面には葺石が施されていたと考えられる。前方部
	の先端が横に突出する柄鏡形の前方後円墳である。墳丘のまわりには盾形の周濠があったと考えられている。埋葬施設に
	ついては、発掘調査が行われていないため不明である。築造時期は弥生終末期〜古墳時代前期と考えられる。

	(3).築山古墳
	三雲集落の東のはずれにある前方後円墳。前方部を北西に向けた古墳だったが、前方部も後円部も一部破壊されている。
	墳丘は全長約60m(推定)、後円部の直径約49m、高さ約8m(推定)、前方部の長さ30m(推定)、幅約25m
	(推定)である。後円部の直径に比べ前方部がやや短い。墳丘の斜面には葺石が施されていたと考えられ、墳丘のまわり
	には盾形の周濠があったと考えられている。また、周濠から壷型の埴輪が出土しており、墳丘には埴輪が立てられていた
	と考えられる。ここも、発掘調査が行われていないため詳細は不明。築造時期は4世紀末と推定される。

 
端山古墳・築山古墳

 

 


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