3.文献は語る −中国正史の前に−



	私は「邪馬台国大研究入門」の冒頭で、「倭と倭人」についての概略を述べた。そこで、「倭」という語が初めて中国
	の史書に現れるのは「山海経」という書物の中であるとし、その成立を紀元前6世紀頃と書いたが、その後調べたとこ
	ろではこれは百年か二百年か間違っている可能性がある。「山海經」という書物は、作者不詳でその成立時期も正確に
	は不詳なのだ。だいたい、春秋戦國時代(約650B.C.〜203b.c.)から前・後漢頃にわたって成立したと考えられている
	が、しかし取り上げられているその地名に、戦国末期に実在した地名が多く見えるので、一番古い「倭」の出典である
	ことは間違いない。いままでの時代編年に従えば、もしかすると縄文時代晩期後葉に成立した書物なのかも知れないの
	だ。
	周知のように、その後「倭」という文字の現れる中国国史の最初のものは、班固編の「漢書(前漢書)」であるが、こ
	れは後漢の頃(後82年頃)に成立したと考えられ、その次が「陳壽」の書いた「三國志」で、これがだいたい3世紀末
	の西晋の成立と言われている。「漢書地理志」の有名な「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」が、「倭
	人」という文字の、国史に出現する初見である。中国国史については次章以降で取り上げるが、ここではその前に出現
	した2つの例を見ておきたい。一つは「山海經」に現れる「倭」で、もう一つは1970年、中国の安微省はく県の後
	漢時代の墓から見つかった「倭人磚(せん:土レンガの事:日本語では扁は土扁)」とよばれる、土レンガに書かれた
	「倭人」という文字である。正確には漢書よりもこちらの方が、先に出現した「倭人」という文字になる。

	なお、中国の王朝は「・・秦 → 前(西)漢 → 後(東)漢 → 三国時代(魏・呉・蜀)→ 晋 →・」という
	順序で進展していくのであるが、それぞれの王朝の歴史をまとめた歴史書(国史)は、必ずしも年表通りの王朝の順番
	には成立していない。例えば「後漢書」は5世紀の宋の時代に成立したので、3世紀に書かれた「三国志」よりも新し
	い事になる。この点は日本の古代の様相を中国の史書に探ろうとするとき、留意しておかなければならない点である。
	当然、同時代に書かれたものの方が、数百年を経て編まれたものより、はるかに真実を語っていると考えられるからで
	ある。
   


	(1).山海經(山海経:せんがいきょう/さんかいけい、とも呼ぶ。) 中国神話研究の基礎資料の一つ。
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	作者不詳。成立時期不詳(春秋戦國時代〜前・後漢頃)。中国古代神話、地理書、本草書、怪奇・怪談等と紹介される。 
	空想的地理書といわれたり、本草書といわれたり、巫祝の書といわれたりする中国古代の書物。中国の山や海の動植物
	や金石草木、怪談などが書かれている。内容から原始山岳信仰に端を発しているといわれ、その奇妙な神々や動物に関
	しては多くの研究がある。これまでのところ、戦国時代(紀元前5−3世紀)以前に五蔵経(東、西、南、北、中山経)
	が作成され、以後秦・漢時代(紀元前3−後3世紀)に後人が内容を付け足していったとされる。後に付加された部分
	ほど空想的な要素が強い。もともと絵があったとされるが現存せず、今、我々が見るのは後人が文章から想像して描い
	たものである。晋の郭璞(かくはく)が注を加え、清の時代に□懿行(かくいこう)が更に注と校定を加えた。
	(参考:平凡社 高馬三良訳「山海経 中国古代の神話世界」)
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	■「山海経」は中国最古の空想的地理書とされるが、内容は山川の地理、想像上の動植物や鉱物、山岳祭祀、辺遠の国
	々と異形の民、伝説上の帝王の系譜など多岐にわたっている。中に奇怪な姿の動植物や神々が多く記録されているため、
	後世にはもっぱら怪奇事典として好奇の用に供されるようになる。しかし「魑魅魍魎」の跋扈(ばっこ)する世界はあ
	くまでも「山海経」の一部にすぎない。(富山大学人文学部中国言語文化・大野圭介氏)

	■「山海経」は大きく分けて前半の「山経」と後半の「海経」に別れているが、両者は構成・文体が明らかに異なり、
	もともと別の書物だったものが一緒になったもの。「山経」の部分は、「第一 南山経」から「第五 中山経」までの
	五つの章に別れており、山とその周辺の川や動植物などを解説しているが、そうした山の解説を山脈や山塊の単位でひ
	とまとめにしており、これを「次篇」と呼ぶ。(伊藤清司著『中国の神獣・悪鬼たち 山海経の世界』東方書店)

	■「山海経」の構成
	現本の『山海経』は全18巻であり、次のように大別される。(1).五蔵山経(巻一〜巻五)、(2).海外四経
	(巻六〜巻九)、(3).海内四経(巻十〜巻十三)、(4).大荒海内経(巻十四〜巻十八)。それぞれで内容も文
	体も異なり、同時期に同一人物の手で成立したものではない。このうち五蔵山経を「山経」、海外四経以下を「海経」
	と呼ぶ。

		(1).五蔵山経  巻一  南山経(南山経・南次二経・南次三経)
				  巻二  西山経(西山経・西次二経・西次三経・西次四経)
				  巻三  北山経(北山経・北次二経・北次三経)
				  巻四  東山経(東山経・東次二経・東次三経・東次四経)
				  巻五  中山経(中山経・中次二経〜中次十二経)
		(2).海外四経  巻六  海外南経
				  巻七  海外西経
			  	  巻八  海外北経
				  巻九  海外東経
		(3).海内四経  巻十  海内南経
				  巻十一 海内西経
				  巻十二 海内北経
				  巻十三 海内東経
		(4).大荒海内経 巻十四 大荒東経
				  巻十五 大荒南経
				  巻十六 大荒西経
				  巻十七 大荒北経
				  巻十八 海内経

	■海内四経の記述は、中国の辺境に関する記述や、崑崙山に関する記述など雑多なものを含む。しかしその最大の特徴
	は、戦国末期に実在した地名が多く見えることである。例えば
	大澤方百里、群鳥所生及所解。在鴈門北。鴈門山、鴈出其間。在高柳北。高柳在代北。
	(大沢は方百里、群鳥の生ずる所及び解く所。鴈門の北に在り。鴈門山、鴈其の間に出ず。高柳の北に在り。高柳は代
	の北に在り。:海内西経) に出現するのは、趙の地名であり、
	貊國在漢水東北。地近于燕、滅之。
	(貊國は漢水の東北に在り。地は燕に近く、之を滅ぼす。:海内西経) は燕とその周辺国の地名であり、
	琅邪臺在渤海間、琅邪之東。其北有山。一曰在海間。
	(琅邪臺は渤海の間、琅邪の東に在り。其の北に山有り。一に曰く海の間に在りと。:海内東経) は斉の地名である。
	わが(?)「倭」の文字は、「巻十二 海内北経」に登場する。

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	山海經  第十二 海内北經 (原文)
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	海内西北陬以東者 蛇巫之山 上有人操而東向立
	西王母梯几而戴勝杖 其南有三青鳥 為西王母取食 在昆侖虚北
	有人曰大行伯 把戈 其東有犬封國 貳負之尸在大行伯東
	犬封國曰犬戎國 状如犬 有一女子 方跪進食 有文馬 縞身朱鬣 目若黄金 名曰吉量 乘之壽千歳
	鬼國在貳負之尸北 為物人面而一目 一曰貳負神在其東 為物人面蛇身
	犬如犬 青 食人從首始
	窮奇状如虎 有翼 食人從首始 所食被髮 在犬北 一曰從足
	帝堯臺 帝臺 帝丹朱臺 帝舜臺 各二臺 臺四方 在昆侖東北
	大蜂其状如螽 朱蛾其状如蛾
	□其為人虎文 脛有綮 在窮奇東 一曰状如人 昆侖虚北所有
	非 人面而獸身 青色
	據比之尸 其為人折頸被髮 無一手
	環狗 其為人獸首人身 一曰蝟状如狗 黄色
	□其為物人身K首從目
	戎 其為人人首三角
	林氏國有珍獸 大若虎 五采畢具 尾長于身 名曰吾 乘之日行千里
	昆侖虚南所 有氾林方三百里
	從極之淵深三百仞 維冰夷恆都焉 冰夷人面 乘兩龍 一曰忠極之淵
	陽汗之山 河出其中 凌門之山 河出其中
	王子夜之尸 兩手 兩股 □
	首 齒 皆斷異處
	舜妻登比氏生宵明 燭光 處河大澤 二女之靈能照此所方百里 一曰登北氏
	蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
	朝鮮在列陽東 海北山南 列陽屬燕
	列姑射在海河州中
	射姑國在海中 屬列姑射 西南 山環之
	大蟹在海中
	陵魚人面 手足 魚身 在海中
	大居海中
	明組邑居海中
	蓬山在海中
	大人之市在海中
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	山海經  第十二 海内北經 (読み下し)
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	海内、西北陬(すみ)より東の者(ところ)。蛇巫(だふ)の山。上に人有りを操(と)りて、東に向い立つ。
	西王母、几に梯して勝杖を戴せる。其の南に三青鳥有り。西王母の為に食を取る。昆侖の虚(おか)の北に在り。人
	有り、大行伯と曰う。戈を把(と)る。
	其の東に犬封國有り。貳負(じふ)の尸(し)、大行伯の東に在り。
	犬封國、犬戎國と曰う。状、犬の如し。一女子有り、方(まさ)に跪きの食を進む。文馬(文様のある馬)有り。身
	は縞、鬣は朱、目は黄金の若し。名を吉量と曰う。之に乘るに壽千歳。
	鬼國、貳負の尸の北に在り。物と為り人面にして一目。一に曰く、貳負の神は其の東に在り、物と為り人面蛇身。
	犬(とうけん)は犬の如し。青し。人を食うに首より始める。
	窮奇。状は虎の如し。翼有り。人を食うに首より始める。髮食わるる所。犬の北に在り。一に曰く從足。
	帝堯の臺、帝の臺、帝丹朱の臺、帝舜の臺、各(おのおの)二臺。臺は四方。昆侖の東北に在り。
	大蜂。其の状は螽(しゅう)の如し。朱蛾。其の状は蛾の如し。
	(きょう)。其の人と為り虎の文(あや=文様)にして脛に綮有り。窮奇の東に在り。一に曰く、状人の如し。昆侖
	の虚(おか)北の所に有り。
	非(とうひ)。人面にして獸身、青色。
	據比(きょひ)の尸(し)。其の人と為り頸を折り被髮す。一手無し。
	環狗(かんこう)。其の人と為り獸首・人身。一に曰く蝟(むらが)る状狗の如し。黄色。
	(み)。其の物と為り人身・K首・從目。
	戎(じゅう)。其の人と為り人首・三角。
	林氏國に珍獸有り。大いなる虎の若(ごと)し。五采畢(ことごと)く具わり、尾は身よりも長し。名を吾(すうご)
	と曰う。之に乘るに日に行くこと千里。
	昆侖の虚(おか)の南の所。氾林(はんりん)有り、方三百里。
	從極の淵。深さ三百仞。これ冰夷(ひょうい)恆(つね)に都す。冰夷は人面、兩の龍に乘る。一に曰く忠極の淵。
	陽汗(ようお)の山。其の中に河を出だす。
	凌門(りょうもん)の山。其の中に河を出だす。
	王子夜の尸(し)。兩手・兩股・□(字形不明。「胸」という意味の文字。)・首・齒・皆な斷ちて處を異にす。
	舜の妻の登比(とうひ)氏は宵(しょう)明・燭(しょく)光を生む。河の大澤に處し、二女の靈は能く此の所方百
	里を照らす。一に曰く登北氏。
	蓋國。鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に屬す。
	朝鮮。列陽の東に在り。北は海、南は山。列陽は燕に屬す。
	列姑射(れっこや)。海の河州の中に在り。
	射姑(やこ)國。海中に在り。列姑射に屬す。西南、山之を環る。
	大蟹。海中に在り。
	陵魚。人面・手足・魚身。海中に在り。
	大。海中に居す。
	明組の邑。海中に居す。
	蓬山。海中に在り。
	大人の市。海中に在り。
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	■前段部分はほとんどが奇怪な生き物の描写で 、後段の諸国の位置を説明した部分に「倭」が出現している。「蓋國」
	という国は「鉅燕」の南にあって、「倭」の北にある。倭は「燕」に屬している、という箇所である。「蓋國」はなん
	と呼ぶのだろうか。そのまま音に従って「がいこく」と呼んでおこう。蓋國の位置を巡っては、今の河北省の北半部か
	ら遼東半島にかけた一帯にあった国であろうとされ、後の高句麗ではないかとされている。今の平壌(ピョンアン)あ
	たりから北と考えればよい。「鉅燕」は「大燕国」と考えられ、3世紀時代には「鮮卑」となった地域である。その燕
	国の南に蓋国が在り、倭はその蓋国のさらに南にあって、燕国に臣下の礼を取っていたということになる。「倭は燕に
	屬す」という文節は、中国は天下をことごとくその属領と考えていたのでこういう表現をしているが、重大な意味はな
	いとする見方が一般的。

	■ここからは、この「倭」を北九州とみるのは困難なことが分かる。蓋国は後の高句麗、鉅燕国は大燕国と考えるなら
	ば、「倭」は蓋国南の、朝鮮半島南部に在ったということが裏付けられる。その境界ははっきりしないが、「東夷」の
	国々についてはその後もよくわからないのが実情なので、倭の位置も当時相当混乱していたはずである。


	■上の図では「燕」と「鉅燕」とを分けているが、前述したように「鉅燕」というのは大きな「燕」という意味で、
	「燕」と同じである。私はもっと東方へ「燕」の領土は伸びていたのではないかと思っている。また山海経には朝鮮は
	朝鮮として出現するので、蓋国が朝鮮半島北部のすべてを支配していたのではない事も確かだし、南から「倭」「朝鮮」
	「蓋国」「鉅燕」と連なっていたのであれば、「倭の北に在り。倭は燕に屬す。」の前に「朝鮮の北に在り。朝鮮は燕
	に屬す。」という文章もなくてはおかしい。倭と朝鮮は同じような規模で朝鮮半島南部・中部にあったのかもしれない。
	あるいは朝鮮は、半島の東部にあって、直接「蓋国」とは境を接していなかった可能性もある。かって「東洋史上より
	みたる日本の古代」という講演で、邪馬台国東遷説を唱えた東京大学の名誉教授だった和田清博士は、その講演の中で
	蓋国は後の「わい」ではないかと述べていた。




	■紀元前、朝鮮半島南部に倭人が居た。そして中国ではその地を「倭」と呼んでいた。日本では縄文時代晩期から弥生
	時代になろうとしている時期に当たる。これはどう解釈すべきなのだろう。韓国光州市からは日本の縄文土器が出土し
	ているし、韓国側でもそれを九州の轟(とどろき)・曽畑式土器であると確認しているという。つまり、韓国光州と九
	州熊本付近とで同じ土器が存在するのである。朝鮮南部に「倭人」がいた事はこれまでにほぼ証明されているが、おそ
	らく紀元前の時代、その地域は、少なくとも中国からは、「倭」と呼ばれる国家単位として存在していたのであろう。

	■「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」の記事は、後漢書鮮卑伝とも矛盾していない。これは、倭国の位
	置が鮮半島南部に留まらず、半島北方にまで拡大していることも想定できる。しかし「倭」を大陸ないし朝鮮半島北方
	の位置に特定しようすることには、殆ど意味はないだろう。地勢上の位置ではなく、むしろ文化圏・交易圏として「倭」
	を考えた方がいいのかもしれない。沖縄本島から「燕」の明刀銭が発見されているし、前漢・後漢の五銖銭も沖縄本島
	から発掘されている。「燕」の交易圏としての「倭」が、朝鮮半島南部から沖縄本島にまで広がっていたと考えれば、
	「倭は燕に屬す」という意味も理解できるような気がするし、当時の海洋的な広がりは、魏書が邪馬台国の位置を「会
	稽・東冶の東」と書いていることにも符合する。

	■昭和50(1975)年に、対馬に住む永留久恵氏が大和書房から出版した、「古代史の鍵・対馬」という本には、氏が
	子供の頃にも、漁民が琉球半島から黒潮に乗り、途中で対馬海流へ乗り換え、対馬辺りまで丸木船に乗って漁に来てい
	たと書いてある。山育ちの私とすれば、俄には信じがたいような話なのだが、ほんとであれば丸木船による交流は相当
	な行動圏を持っていた可能性もあるのだ。当然、琉球の漁民達はまた、丸木船で生まれ故郷へ帰ったに違いないのだか
	ら。






	(2).後漢時代の墓にあった「倭人磚」
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	1970年の春、中国の安微省はく県の、ちょうど黄河と長江の中間に当るところで、後漢時代(25-220)の墓が見
	つかった。古くは商の都があったところで、その古墳は6年後に発掘され、地名をとって「元宝坑一号墓」と名付け
	られた。この墓は高さ4mほどで、日本の古墳と違って地下に石とレンガ(磚)で作られたりっぱな部屋、墓室が築
	かれていた。この古墳と、その周辺で発掘された古墳群は、後漢時代でも2世紀後半のもので、出土遺物の調査など
	から「曹氏」一族の墓であることが判明した。曹氏は中国の有力な豪族であるが、一号墳の主より50年ほど後には、
	当時の混乱に乗じて後漢の皇帝を廃し、新しく「魏王朝」をたてた曹操を生み出した一族である。
	この一号墳の墓の構築にはおびただしい数のレンガが使われているが、その内の160点ほどに、ヘラ状のもので擦
	って字や文章を書いたものが見つかっている。その中に以下のレンガ(磚:せん)があった。上部は欠けているので
	文章の全体は不明だが、「・・有倭人以時盟不」という文字が読み取れる。倭人という文字があったことから、この
	レンガは「倭人磚(わじんせん)」と呼ばれている。(日本語では「磚」の篇は土篇になる。)
	中国の雑誌「文物」(1978年第8期)や「文物資料叢刊」(第二号)に紹介された。中国に残る「倭人」という
	語の最古の例である。
	【せん】
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	「・・有倭人以時盟不」
	「倭人、時を以て盟(ちか)うこと有るや。」(森浩一氏)
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	■「古代学研究」93号に、晃華学園講師であった星宮恵一氏の論文が載った。それによると、当時相当数の倭人の
	集団が元宝坑一号墓のある「はく県」の近くにいて、それが後漢王朝に反抗する中国側の勢力(曹氏一族?)と時を
	決めて盟約した史実があったとみる。森浩一氏は、一見とっぴな説のように見えるが考えられなくも無いとしている。

	■「倭人」と言えば我々はすぐ現在の日本人を思いがちだが、紀元前の日本人などは、中国人か朝鮮人かそれともオ
	リジンの日本人か、ほとんど区別はつかなかったのではないだろうか。倭人磚は170年代の物と考えられるので、
	後漢書に「安帝永初元年(107)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」と記録されてから、卑弥呼が朝貢する景
	初3年(239)までの、ちょうど真ん中ぐらいの「倭人」に関する記録として、第一級の史料と言えるだろう。

	■森浩一氏は、史書に記されている「生口」という語にも注目している。帥升等が百六十人も生口を献上しているの
	は後漢書に書かれているが、「漢書(前漢書)」にも、「分爲百餘國、以歳時來獻見云」とあり、倭からたびたび中
	国を訪れて獻見しているし、それらの訪問時にも生口は献上された可能性がある。だとすれば、中国国内に「倭人村」
	(生口村)が出来ていたとしても不思議ではない。国史編纂に当っては、それら生口として大陸へ渡った者達の知識
	も反映しているのではないかとみる。当初は奴隷として散発的に中国国王へ献上されたが、やがて数カ所(あるいは
	1ケ所)に集められ、やがて一つの集団を形成していたとみれば、以下の考察も納得していただけるのではないだろ
	うか。
	■「盟」という文字の出現も注目に値する。倭の中国に対する立場は、殆どが「朝貢」「献見」などと、中国よりは
	一段下の関係として記録されているのに、ここでは深い契りを示す盟という字が使われている。そもそも盟という字
	は、皿の上に乗せた生け贄の血をお互いに啜り合い、神の前にて約束をするというもので、そこには上下の関係は無
	い。これは「倭人」と「曹家」の堅い絆を記録したもののようにも思える。「魏」の成立に「倭人」も協力していた
	のだろうか。少なくとも、「倭人」と呼ばれる集団が「はく県」の曹氏の近くにいた事は確かである。
	


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