2.中国史・朝鮮史概略



	
	(1).三世紀までの中国史概略

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	★「長江文明」 伝説に残らない古代王朝
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	黄河にいた漢民族とは独立して、或いはその出現よりはるか昔に、長江(揚子江)流域に農耕民族がいた。はるか1
	万年の昔に水耕稲作を発案し、長江中流域から下流域にかけて、一大農耕王国を築いていた。これは、ほんのこの頃
	まで(20年ほど前?)は、一部の研究者以外にはほとんど知られていなかった。上海の南で河姆渡(かぼと)遺跡
	が発見されてから、続々と同様の遺跡の発見が相次ぎ、長江流域が古代文明の新たなエリアとして、大きな脚光を浴
	びるようになったのは、ほんのこの数年来の出来事である。これまで世界の古代文明は、「世界四大文明」として、
	エジプト、メソポタミア、チグリス・ユーフラテス、そして黄河文明というのが通説だったし、我々もそう教わって
	きた。しかしこれは「五大文明」と改めなければならないほどの規模と文化を持っているし、なによりも東アジア一
	帯の稲作の発祥地としての存在は、黄河文明をしのぐかも知れないのである。また同流域の三星村を中心とした一帯
	で発見された「三星堆(さんせいたい)遺跡」は、その証明となりそうな文化度を持っていることが判明しつつある。
	しかしながらこの文明は、文字を残した漢民族の記録には残っていないようにみえる。あるいは今後の研究で、既に
	史書に出現しているどこかの古代国家に該当するのかもしれないが、やがて三国時代の「蜀」の都になっっていった
	形跡もある。いずれにしても、我が国との関わりでは、その民族形成の源まで遡れば、非常に関係が濃い文明である
	事は確かだ。後に黄河文明を中心とする北方民族に征服され、この地域の人々が中国西南部と海を渡って日本・朝鮮
	半島に逃れたとされており、前者は現在の雲南省・苗族の祖先となり、後者は日本人のルーツと考える説もある。

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	★「三皇」・「五帝」・「兎」時代】 伝説の古代王朝
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	黄河の中流域に、漢民族が、農耕民族として現われたのは、今から、約5000年ほど前のことと言われる。現在、
	中国で最古の文献に残っているのが、「三皇時代」で、伏羲(ふくぎ)、女[女咼](じょか) 、神農(しんのう)
	の三人を言う。有名な「神農」は三皇の一人である。「神農」は、世界最古の薬草集大成の「神農本草経」の元にな
	った人物で、人身牛頭で、姓を「姜」と云った。伝説では、ついで、「五帝」と呼ばれる聖君の時代へ入る。「五帝」
	は「黄帝(こうてい)、せんぎょく、帝こく、堯(ぎょう)、舜(しゅん)」であるとされる。五人の皇帝が治めた
	時代が「五帝時代」である。舜帝のあとに出現するのが「兎(う)」である。父 鯀が出来なかった治水を、舜帝の
	命でやり遂げたのが「禹」で、治水に功があった王と言われる。

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	★「」王朝時代 伝説/実在があいまいな古代王朝
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	「夏」王朝が始まるが、遺跡・遺物等は発見されていないので実体も不明で、ここまでは実在の王朝ではなく、伝説
	上の時代であるとされている。しかし最近実在説もある。始祖「禹は」黄帝の子孫ともいわれ、帝舜のとき中国を襲
	った大洪水を13年かけて治めることに成功し、舜から帝位を譲られ、夏后と称した。その死後、子孫が位を継ぎ、
	中国史上初の世襲王朝となった。第17代目の履葵(桀王)は暴虐であった爲諸侯が背き、「殷」の成湯大乙(湯王)
	に討たれ、「夏」は滅んだ。実在説は夏王朝の文化として、河南省偃師の土器の様相から、古史の伝えるごとく、夏
	が青銅器の最初の製造者であった可能性があるとしているが、その実在は未確認である。「夏王朝」から「史記」に
	文献としての記録が残っている。

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	★「」王朝時代 前17世紀ごろから前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配した実在の王朝。
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	紀元前1700年頃、黄河上流地方には氏族からなる多数の小国家が生まれつつあった。こうした多数の部族国家を
	征服して、中国最初の王朝となる「殷」王朝が建国された。「史記」などによれば、殷の始祖である「契」は夏王朝
	の創建に際して功をたて、領地をあたえられた。そして、14代目の成湯が腐敗した夏王朝をほろぼして王位につき
	「湯王」となって「殷王朝」をひらいたという。殷王朝は6回遷都したと「史記」に伝えられるが、殷墟は最後の首
	都と考えられている。殷の政治は、祭政一致であり、亀甲を火であぶって占う卜占(ぼくせん)による神権政治を敷
	き、陰陽思想等による鬼道を発達させた宗教を基本としていた。この時代には既に文字、法律、青銅器が使用されて
	いたことが確認されている。ほぼ4百年後、殷30代目の紂王(ちゅうおう)も又暴虐で政治をかえりみず、酒色に
	ふけり国は大いに乱れ、西方の新興国家「周」の武王に滅ぼされた。日本では殷とよばれることが多いが、これは次
	の周王朝が名付けた蔑称で、自らは商と称した。周がなぜ殷と呼称したのかは明らかではない。

	殷は前11世紀前半にもっとも栄えたとされ、その文化圏は、遼寧南部、黄河中流域、山東西部、東シナ海、安徽北
	部、陜西部中部にまでおよんだ。一説ではその文化は日本にも到達していたとも言われる。殷の人々は「天」の意志
	を重視した。王はさまざまな決定をする際にかならず占いをし、天の意志を確認して命令をくだした。祭政一致の典
	型的な神権政治であった。邪馬台国に似ていなくもない。当時の職人たちによってつくられた青銅器は殷文化の最高
	峰を占め、世界美術史の中でも高く評価されている。酒器・食器などにみられる器形・装飾は独創性にとみ、描かれた
	神々の姿は躍動感にあふれ、美術的価値は世界最高峰である。2004年5月、大阪市歴史博物館において開催された、
	「上海博物館展」には、この王朝の青銅器がずらりと並んでいた。

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	★「周」王朝時代  西周・東周(春秋戦国時代)
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	紀元前1050年頃、「殷」に替わって「周」王朝が出現する。武王は「殷」を破って2年後に死亡し、叔父の周公
	が政治をとった。この時代に周の勢力は、東北方面では「ぼっ海」にまで達し、南方面は揚子江まで拡大した。武王
	時代から12代の幽王が殺された紀元前771年までを西周、幽王の子の平王が都を成周に東遷し、秦に滅ぼされる
	までの紀元前770年から同256年までを東周(春秋戦国時代)と呼ぶ。首都の周原は武王の祖父の時代に移住し
	て勢力を蓄え、西周の都が他に移った後も国の政治。宗教上の中心として栄えた。周の政治も殷の方法を受け継ぎ、
	亀甲による占い等の鬼道に従ったが、殷の時代ほどこれに支配されず、むしろ開明的な傾向を強めていった。統治方
	法としては、支配地域に分国を設ける等封建体制を敷いた。天下泰平が長く続いた為、この時代を「聖代」と考える
	思想が中国人にもたらされた。孔子は、殷の暴君・紂王を討伐して成立した周王朝を高く評価し、初期の文王、武王、
	その弟・周公旦時代を儒教の最高の手本とするなど、西周は政治の理想とされてきた。
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	「春秋時代」
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	紀元前八世紀頃になると周も衰え、各地の諸候が自立する「春秋時代」(前770〜前403又は前722から前481年)とな
	る。この 時代は、200前後の小国が各地に生まれ、やがて互いに連合と争いを繰り返しながらいくつかの大国に
	統合されていく過程にあり、又、神権政治を排除して有能な官吏による政治へと変化して行く時代でもあった。
	この時代に初めて「史書」が登場する。晋では「乗」、楚では「とう杭」、魯では「春秋」というように列国は競っ
	て史書編纂に励んだ。孔子(前551〜前479)はこの時代の魯の国の人であり、いわゆる「四書五経」もこの時代の書物
	ということになる。「春秋」は、魯の国の年代記で、紀元前770年から紀元前481年迄の242年間が記されて
	おり、孔子の手による修筆が為されていると伝わる。本書は、史的史実と歴史への批判精神を組み合わせた「筆法」
	に基づいた著述の仕方になっており、後年「歴史の大原は春秋に基づく」とされる評価を得るようになる。後世、魏
	志倭人伝もこの「春秋の筆法」で書かれているため、そのまま字面どおり読んではダメで、隠された意味を読み取ら
	なければいけないという主張がなされ、我が歴愛倶楽部の馬野さんも、その信奉者である。
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	「戦国時代」
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	そして有力な諸候の一つであった「晋」が分裂し、「韓、魏、趙」の三国に分かれた。紀元前403年から秦の統一
	前221年迄を「戦国時代」と呼ぶ。この時代は「七強」と呼ばれる「燕.斉.楚.秦.韓.魏 .趙」の諸国が対
	立抗争した。この時代に、「儒家.墨家.道家.法家」などの「諸氏百家の学」が起った。東夷との関係で見ると、
	東北隅に位置した「燕」という国が関係深く、北京の西北□(けい)に都し、その昭王(前312〜前279)の頃は遼東を
	傘下に治めていた。「山海経.第十三海内東経」に「鉅燕は東北陬に在り」、とあり、「同書第十二海内北経」には、
	「蓋国は鉅燕の南に、倭の北に在り、倭は燕に属す」という一節があることはみたとおりである。
 

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	★「秦」王朝時代
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	この戦国時代を経て、中国最初の統一王朝として、始皇帝により「秦」王朝(前221〜前206年)が建国された。
	秦は、中央集権をはかり、封建制度を廃して郡県制度を断行した。又、北方遊牧民族の凶奴の南下を防ぐ爲、万里
	の長城を築いた。秦は、全国的な道路網の整備、度量衡、文字の書体、通貨の統一などにも功績を挙げた。しかし、
	この王朝は短命で紀元前206年、漢の劉邦によって滅ぼされた。始皇帝の時代に、除福ら数千人を乗せた船によ
	る脱出航海の記録が残る。

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	★「前・漢」王朝時代
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	秦の滅亡後、封建制度の復活を図る旧貴族の「項羽」と、新興農民層出身の「劉邦」とが争い、劉邦が、前202
	年に「垓下の戦い」で項羽を破り、中国を統一して「漢」を立てた。この時期が、漢民族の一大発展期となる。通
	常漢の時代は、前漢(紀元前206〜8)と後漢(25〜220)に分けられ、前漢は、前202年高租劉邦の即位に始まり、
	都は西の長安(現西安)に置かれた。前漢の武帝(前141〜前87)は、中央集権体制を確立し、儒学を官学と定め、
	経済力を背景に領土拡張政策を押し進めた。北方から中国を脅かしていた騎馬民族の凶奴との争いに、張騫を派遣
	してこれを打ち破り、モンゴル高原へ進出した。はるか西方の大月氏(現アフガニスタン北部〜中央アジ ア)にま
	で使者を送り版図を拡げた。さらに、南方越國をも滅ぼして、南海郡ほか八郡を置いて直轄地とした。次に東方政
	策として朝鮮半島へ乗り出した。まず元封2〜3年(前109〜前108)にかけて衛氏朝鮮を滅ぼし、紀元前108年、
	「楽浪郡、真番、玄菟、臨屯」の四郡を置き朝鮮半島を直接支配することとなった。武帝の朝鮮出兵の結果、東夷
	との交易朝貢関係が大きく進展した。
	司馬遷(前145〜前86)により中国最初の正史「史記」が編纂されたのもこの時期のことである。本紀12巻、世家
	30巻、列伝70巻、年表10巻、書8巻の全130巻におよぶ膨大な史書である。中国の古代から紀元前100
	年迄の歴史が編纂されている。司馬遷は、史記を紀元前93年に15年の歳月を費やして完成させ、現在でも世界
	に残る名歴史書とされている。東大阪に住んでいた作家の司馬遼太郎が、司馬遷に憧れてそのペンネームを決めた
	のは有名。「本紀」は国家の年代記、政治史で、「列伝」は個人の伝記である。同じく班固(前32〜前92)は、
	前漢の歴史を書いた「漢書」(帝紀12巻、年表8巻、志10巻、列伝70巻、全100巻)を著わした。「漢書」
	地理誌第八下燕地の条の一節に倭の記録が残されている。「夫れ楽浪の海中、倭人有り、分かれて百余国と為る、
	歳時を以って来り献見すと云う」。
 

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	★「新」王朝時代
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	紀元8年に、王莽(前45〜後23年.前漢第10代の皇帝元帝の皇后の弟の子)が前漢を滅ぼして 皇帝になり、「新」
	(8〜23年)を建国したが、王莽の治政は、「是に於いて、農商は業を失い、食貨倶に廃れ民人は市.道に於いて涕
	泣するに至る」(「漢書」王莽伝第六十九中)と言われるほど荒廃したものだった。紀元18年「赤眉の乱」が起り、
	この乱は翌年鎮圧されたが、余塵はその後も各地にくすぶり続け、やがて「新」は、わずか15年で滅びる。
	王莽が、14年に発行した硬貨である貨泉が、日本で弥生式土器とともに出土している事例があるので、倭と新も
	往来が存在していたことを物語る。

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	★「後漢」王朝時代
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	紀元23年、前漢の王族の「劉元」等により新が倒された。王莽の没後の動乱を治めて、紀元25年頃、高祖の9
	世の孫に当る「劉秀」により「後漢」王朝が建国された。彼は、帝位について光武帝(前6〜57、在位25〜57)と名
	乗った。都は東の洛陽に置かれた。この時代の様子を、宋時代になって范曄(398〜445)が「後漢書」(帝紀10巻.列
	伝80巻.志30巻.全120巻)として記録している。「後漢書」には、光武帝が57年に倭の奴国王に与えた金印の記事
	が残っている。「後漢書東夷伝第七十五.東夷伝倭の条」
	「建武中元二年、倭の奴国奉貢朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を以ってす。」

	この頃、北の凶奴は内紛によって衰退し、西域都護(地域の政治.軍事を司る武官)となった班超は、西方の移民族
	を次々に打ち破り、領土をインド北方にまで広げた。班超が活躍した90年代は後漢の最盛期であって、この頃の
	倭国の記録として「後漢書.東夷伝」に、「永初元年(107)、倭国王帥升等、生口百六十人を 獻じ、願いて見えん
	ことを請う」とある。
	アジアでの後漢の優位 はそれからも暫く続いたが、2世紀に至って桓帝.霊帝の時代(132〜189年 )を通して後漢
	は衰運に向かう。皇帝の后たちに仕える宦官勢力の伸張によって、後漢の政治は急速に腐敗し、不正を正そうとし
	た役人達は「党人」と呼ばれ、逆に弾圧されてしまうありさまだった。専権をふるうようになった宦官たちは賄賂
	を好み、地方官たちは農民に重税を課して出世をはかったその為、貧窮にあえぐ農民が国中にあふれることとなっ
	た。184年、奴隷化した農民を救おうと「張角」が、「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし」と唱えて、反乱
	を起こした。張角のもとには十数万人が集まったという。彼は敵と味方を区別する為、部下たちに黄色の巾を頭に
	巻いて戦わせたので、の事件は後に「黄巾の乱」と呼ばれる。
	後漢政府は、莫大な恩賞を約束して豪族たちの軍勢を集め、ようやく「黄巾の乱」を鎮めることに成功したが、乱
	討伐に活躍した豪族や地方官たちは、やがて軍閥へと成長していく。国内を統一する力を失った後漢政府は、当然
	のことながら周辺諸民族への影響力をも失い、東方では、高句麗が成長し、北方では凶奴の子孫が再び暴れ始める
	ことになった。南蛮の諸王や西羌の軍勢もしばしば国境周辺で略奪を行い、やがて、西涼(現在の敦煌)にあって異
	民族を押さえていた将軍□□(とうたく)が軍隊を率いて首都洛陽に攻め入り、政権を襲った。とうたくは、19
	2年、部下の呂布に殺されたが、その後台頭してくるのが後漢の重臣「曹操」である。曹操は中央の混乱を武力で
	治めて華北を制圧した。

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	★「魏、蜀、呉の三国志」時代
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	220年、曹操の息子の「曹丕(そうひ)」が、献帝からの禅譲により帝位につき。後漢時代に終止符を打つ。
	曹丕は「魏」王朝を建国した。彼は文帝(在位220〜226年)と称し、黄初と改元して都を洛陽に定めた。こうして三
	国対立の時代が幕を開ける。実質的には曹操が華北を制圧した段階で、三国時代が始まったといってよい。中国で
	は、帝位をめぐる争いがしきりに起こり、いくつもの王朝が交代したが、3つの強国が並んで互いに天下を争った
	時期はこのときだけである。魏は揚子江の北部を拠点として華北一帯を領土とし強勢を誇った。
	曹操と対立して四川地方で独立し、「蜀」(221〜263年)を興したのが、後漢の王室の血を引くと云われる劉備であ
	った。劉備が、軍神と云われた関羽、酒飲みの豪傑張飛の二人と義兄弟の契りを結び、彼らの武勇と、軍師として
	迎えた諸曷孔明の軍略に助けられて、しばしば曹操の大軍を悩ます話は有名である。蜀は今日の重慶・成都あたり
	の揚子江上流の奥地、いわば西方を拠点とした。
	一方江南地方の名門出身の孫権は、魏の南の江南一帯を支配とする「呉」(222〜280年)を興すこととなった。呉
	の時代には、「六朝文化」と呼ばれる、華北とは異質な江南特有の文化が生まれた。 

	220年から265年までの中国では「魏・呉・蜀」の三国が鼎立し、われこそは中国の覇者として激 しく争った。
	この時代、朝鮮半島・倭国を含む東アジア全体も動乱の時代であった。この当時の戦乱の時代を活写したのが「三
	国史」である。三国が睨みあいながらも、中国全体としての政局は一応の安定をみせ、そうなると三国はいずれも
	周辺の異民族に目を向け始め出した。後漢時代の終わりに失った漢民族の支配圏を取り戻そうという動きでもあっ
	た。「呉」はベトナム、カンボジア方面に南下策を取り、蜀は雲南(ビルマの北方)やチベット方面に進出した。
	「魏」は、呉、蜀に劣らぬ最も積極的な外征策を取った。曹丕は、曹真と司馬懿の二人の将軍の活躍により勢力を
	拡げていった。曹丕は、曹真に、蜀との抗争の最前線であり、しかもシルクロードの入り口にあたる西安の防備を
	命じた。曹真は、西安に趣くと、西域の諸国に働きかけて魏の勢力を西方に伸ばし北方から蜀を圧迫する態勢をつ
	くりあげた。226年に文帝が没すると、文帝の長男の明帝(226〜239)を助けながら西域経営をさらに進めていっ
	た。
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	遼東半島に「公孫氏政権」誕生するも、やがて滅亡。
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	この頃、遼東半島を公孫氏が支配していた。公孫氏は、元々後漢の時代に公孫度が地方官吏として遼東半島の大守
	となったことに始まり、2世期の終わりに、公孫度が、後漢から自立して独立した軍閥になり、以来「遼東候平州」
	牧と名乗り、この地方の王としての権勢を振るうこととなった。丁度魏の西北に位置する第4勢力のようになった。
	公孫度は、武力で国内の地固めをなすや、外交軍事攻勢により東は高句麗を討ち、西は鳥桓を撃ち、その宗女を夫
	余に嫁がせ中立を守らせる等着々と影響力を蓄えていった。初平年間(190〜193年)には、遼東郡を分割し、遼西、
	中遼それぞれに大守を置き山東半島までも手に入れてしまった。
	204年に公孫度の跡を継いだ公孫康は、朝鮮半島へ進出し楽浪郡を手に入れ、東方の異民族と積極的に交流をも
	った。公孫康はやがて紀元200年代もしくは210年代に、楽浪郡の南に帯方郡を置くこととなった。朝鮮半島
	南部をも支配する為であった。帯方郡は水利の便を考えて、大同江の河口に南から流入するサイネイ江の上流に置
	かれた。「三国志」によると、それによって倭国や朝鮮半島南部の小国家、いわゆる馬韓.弁韓.辰韓の三韓が帯方
	郡に従ったと記されている。221年公孫康没。没後弟の公孫恭が跡を継ぐが、まもなく康の子の淵(在位228〜238)
	が位を奪い、淵は公孫氏政権4世となった。魏は淵に来朝を命じたが、淵はこれに応じず、燕王を僭称して、百官
	を設け、年号を紹漢と定めた。この時代が「卑弥呼」の時代である。
	淵政権成立の経過を見ても、公孫政権は常に魏と呉との狭間で翻弄されており、淵政権も又これに終始せざるを得
	ず、表面上は魏に服属しながら魏の敵呉との同盟を計ることにより延命を図ろうとした。しかし、238年(景初2年)
	8月に、魏の司馬懿の率いる4万人の軍兵により、首都襄平城(遼陽市)が陥落させられ、独立小国家として自立し
	ていた公孫氏は、3世4代のわずか半世紀ばかりで滅亡した。中国全体から見ればごく小さな地方政権にすぎなか
	った公孫氏だが、東アジア史の上からは見落とすことができない重要な影響力をもたらした政権であった。
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	邪馬台国の女王「卑弥呼」から朝賀を求める使節がやって来る
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	公孫氏を滅ぼした魏は、朝鮮半島中部までをその支配下に置き、帯方郡は魏の直接統治のもとに置かれ、引き続き
	東夷政策の拠点となった。しかし、朝鮮半島南部は部族間の争いの唯中であり、魏に属そうとする動きは無かった。
	むしろ中国東北部から沿海州にあった「わい」や「東よくそ」「高句麗」等は魏に反抗的でさえあった。そんな中、
	司馬懿が公孫氏を滅ぼした直後の239年に、極東の倭國「邪馬台国」の女王卑弥呼からの使節が送られて来た。
	入門編で述べたようにこの朝貢は、正しく時期を得たタイミングで、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を授けられた。
	邪馬台国が入朝してまもなく、周辺民族に対する魏の優位が確立し、呉や蜀の侵入も治まり、次第に司馬懿を中心
	とする司馬氏一族が、魏の政治の実権を手中に治めていくこととなった。明帝の没後、斉王の曹芳が跡を継ぎ、司
	馬懿は一時名誉職に退けられたが、249年にクーデターを起して、曹真の子曹爽を討ち曹氏一族の力を弱め、こ
	の間司馬懿の息子司馬昭は、263年に蜀を滅ぼした。 

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	★「西・晋」時代
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	ついで司馬昭の 子司馬炎は、265年に魏の皇帝を追って「晋」を建国し、帝位についた。司馬炎は、武帝(在位
	265〜290)と名乗り、まもなくの280年に内紛の続く呉を併合した。こうして、司馬炎により三国の動乱に終止符
	が打たれた。後の東晋(317〜420年)に対してこれを西晋(265〜316年)と云う。魏.晋のこの時代には、中国北
	西部の「五胡」と呼ばれる異民族の勢力も伸張した。五胡は、「凶奴、けつ、鮮卑、てい、羌」の五族を云う。

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	★「五胡十六国」時代
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	しかしながら、西晋は、2代恵帝(在位290年〜306年)の時、 内乱と異民族の侵入によって滅び、317/318年に一族
	の司馬睿(元帝、在位317〜322)が江南に移って「晋」を再興した。南京を都に定めた。これを「東晋」という。
	司馬睿元帝は、揚子江流域以上南を確保し、江南の開発を進めた。一方、華北の天地には、異民族が次々と入って
	来ていろんな国を立てた(「五胡十六国」)が、439年、北魏の太武帝によって統一され、南北朝対立の大勢が
	成立した。一方、江南では、420年に軍閥の「劉裕」が東晋の天下を奪って、宋の武帝(在位420〜422)と称した。
	これを「劉宋」と呼ぶ。この時代に、范曄(398〜445)により後漢書が編纂された。同書は、本紀10巻、列伝80
	巻、志30巻より成る。この書と史記、漢書、三国志を併せて前四史と称される。
	その後、江南では、南斉(479〜502)、梁(502〜557)、陳(557〜589)の諸朝が相次いで交替し、三国時代の呉と東晋と
	を併せて六朝と呼ぶ。この南朝へ、倭の五王といわれる「讃、珍、済、興、武 」の五人が相次いで入朝しているが、
	その大部分は劉宋から479年に集中している。
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	北魏は分裂して、西魏(535〜557)と、東魏(534〜550)となる。西魏は、北周(557〜581)によって受け継がれ、
	東魏は、北斉(550〜577)によって受け継がれる。五胡十六国のあと、北魏、西魏、北周、東魏、北斉の五王朝が
	たつ事になる。北周は北斉を併合したが、随に国を奪われ、589年、隋は、南朝の陳をあわせて南北を統一した。
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	<参考文献:「世界大百科事典」平凡社>







	(2).三世紀までの朝鮮半島史概略

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	★古代朝鮮
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	朝鮮半島は大陸と陸続きであるため、常に中国や北方民族など周辺諸国の侵入を受けてきた。隣国の日本ですら海
	を越えて朝鮮半島へ侵入している。古代史の分野において朝鮮とは、現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の
	領域を言うが、歴史の過程においては、中国の遼寧省・吉林省などを含む場合もある。朝鮮の地名が初めて現れる
	のは中国の戦国時代末期(紀元前3世紀)からである。
	日本に「古事記」「日本書紀」があるように、朝鮮半島にも独自の歴史書がある。アジア史に出現する最古の記録
	としては、中国の史書、司馬遷の『史記』の中に、「殷」滅亡時、東国に逃れた殷の王族の箕子(きし)が「箕氏
	朝鮮」を建国した話が載っているが、これはいわゆる伝説王朝としての扱いであり、史実としての信憑性は薄いと
	考えられる。朝鮮人自身が書き残した、最古のまとまった朝鮮古代史として、高麗朝(1280年代)に書かれた
	「三国遺事」(僧一然が編纂)という書物がある。これが、朝鮮人自身が自国を朝鮮と呼んだ最初だという事にな
	っている。それ以前は、三韓・海東などと呼んでいた。「三国遺事」によれば、朝鮮最古の王朝は「檀君王倹」が
	開いたと言うことになっている。
	『天王桓因は、王子桓雄に、風伯と雨師、そして雲師の三神を従わせて地上に使わし、人間界を支配させた。
	(日本の天孫降臨に似ている)
	ある時、桓雄と同じ洞窟に住んでいた一頭の熊と虎が、桓雄に自分達を人間にするよう頼む。桓雄は願いを聞き入
	れ、藻草(もぐさ)1束と大蒜(にんにく)20個を与え、「これを食べ、100日間日の光を避け籠(こ)もり
	をしなさい。そうすれば人間になれるだろう。」と告げる。
	虎はその試練に耐えきれずに逃げ出してしまうが、耐えた熊は21日目に人間の女になることができた。人間にな
	った熊女はさらに桓雄に、「誰も夫になってくれないので、子供を産むことができない」と訴える。その願いを聞
	いた桓雄は女と情を交わし、やがて男の子が産まれる。その子は、長じて檀君王倹となのり、平壌(ピョンヤン)
	に都を定めて、「檀君朝鮮王国」を作った。』という。
	「三国遺事」によれば、後に中国・周の「武王」年間に、殷の王族であった箕氏が朝鮮に封じられると、檀君は王
	位を譲って山神になったと記されている。このとき、檀君は享年1908歳。「記紀」の100歳、200歳どこ
	ろではない。我が国「記紀」の欠史八代と同様に、この檀君神話については正統性を疑う意見も多いようである。
	しかし、三国時代の各国の建国神話には、朝鮮民族特有のある種の共通点が認められ、そこには何かの母体となる
	故事があったと想像できることから、この檀君神話も何らかの歴史的史実を含んでいるのではないかと言う意見も
	根強い。一方、殷の王族が檀君から譲り受けて建国したという「箕氏朝鮮」は、『史記』の伝説が輸入された後、
	朝鮮側で脚色されたものという見方が強いようである。

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	★衛氏朝鮮
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	これら古代朝鮮を神話時代とするならば、次の「衛氏朝鮮」は間違いなく歴史上実在した王朝であろうとされる。
	『史記』によれば、燕の武将「衛満」が朝鮮に入って「箕子朝鮮」に仕え、前190年頃にその国を奪って建国し
	たといわれる。これが「衛氏朝鮮」である。当時の正式な国名は伝わっておらず、「衛氏朝鮮」の国名は後に漢の
	朝鮮四郡ができてから追記されたものである。衛氏朝鮮の建国以前、すでにこの地方では初期国家が出現していた
	が、衛氏は遼東郡の支援を得て次第にこれらを併合し、領土は朝鮮北部にまで達していたと考えられる。

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	★武帝の侵入から漢の支配下に
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	しかしやがて「衛氏朝鮮」は、前漢の武帝が命じた遠征によって前108年に滅ぼされ、武帝は、朝鮮半島に楽浪
	(らくろう)郡・真番(しんぱん)郡・臨屯(りんとん)郡・玄菟(げんと)郡の直轄領4郡を設置した。これが
	朝鮮四郡とよばれるものである。この時から、行政上でも正式な地名として朝鮮が使われることになる。
	「漢」が侵入すると同時期に、朝鮮半島には楽浪郡を挟んで二つの文化圏が成立する。すなわち、北方の「高句麗」
	が支配する地域と、南方の「三韓」(馬韓・辰韓・弁韓)と呼ばれる地域である。このうち、国家の成立のもっと
	も早かったと考えられるのが、北方の高句麗である。高句麗(?〜668)は、ツングース系(中国東北地方、東
	シベリアで狩猟・牧畜を主業としていた民族)の「夫余(扶余)族」が、紀元前後の頃に中国東北地方に建てた国
	である。
	高句麗は、後漢末に、当時遼東半島で自立した「公孫氏」の討伐を受けて、鴨緑江中流域の北に移り(209)、丸
	都城(がんとじょう)を築いた。さらに公孫氏を滅ぼした「魏」(220〜265)の遠征軍に丸都城を奪われ(2
	44)、国王は東方に逃れた。その後立ち直り、中国の混乱期に乗じて313年に楽浪郡を滅ぼし朝鮮北部を領有
	し、漢民族の朝鮮半島支配を終了させた。そして高句麗は第19代の王、広開土王(好太王391〜412)、長
	寿王(412〜491)、文咨(ぶんし)王(491〜519)の3代の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を
	領有する強国となった。広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠征し百済を攻め、百済救援に
	北上した日本軍を破った。このことが有名な好太王(広開土王)碑文に書かれていて、倭(大和政権)が朝鮮半島
	に進出していたことを裏付ける史料とされてきたが、近年この碑文を巡っては、その真贋を巡っての論争も多い。

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	★三韓・三国時代
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	朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓(南東部)・弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と
	呼ばれていた。三韓のなかはさらに多数の小国に分かれていて、「楽浪郡・帯方郡」の間接的支配を受けていた。
	3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一され、百済(4世紀中頃〜660)が成立した。3世
	紀頃12国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅(しらぎ、4世紀中頃〜935)となる。
	弁韓は、同時期12の国に分かれていたが、4世紀中頃日本が進出し、任那(みまな)(加羅(から)、伽耶(か
	や)とも呼ばれる。)を支配下に置いた。4世紀から7世紀にかけての朝鮮は、「高句麗・新羅・百済」の三国が分
	立し対立していたので、「三国時代」と呼ばれている。
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	<参考文献: ハンリム出版「韓国の歴史」アンドリュー・C・ナム著>



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