Music: Anna
對馬国(対馬)
平成15年10月11日(土曜日)





	
	私は対馬を訪れるのは3度目である。最初は15歳の高校1年生の夏。所属していた生物部の採集旅行で訪れた。その時
	ツシマヤマネコを見たのだが、結局誰にも信じてもらえなかった。2度目は18歳の大學1年生の夏。友人と私の弟の3
	人でここへ海水浴に来た。海水浴場で偶然高校時代の友人二人組に出会って驚いたものだ。彼らは当時社会主義者で、朝
	鮮を見に来たと言っていた。その海水浴場は鶏知(ケチ)の近くだったので、そんなところから釜山が見えはしないのだ
	が。そして今回、私はもう53歳になっている。35年ぶりの対馬と言うことになる。

 
	
	今回の旅では、上記の「対馬パスポート」なるものを使用した。壱岐にも同じものがあって、これを見せると提携してい
	る交通機関や土産物屋やホテル・旅館などが全部1割引だった。これはおもしろいアイデアで、9人にもなると全体では
	結構な額のディスカウントになった。

	対馬は博多から130km余、釜山から50km弱という位置にあって、昔から、北九州と朝鮮との間の複雑なパワーバ
	ランスをうまく調整しつつ生き延びてきた。特に宗氏支配となってからの対馬は、日朝間の文字通り架け橋であった。で
	は太古にあってはいかなる様相を呈していたのであろうか。

対馬MAP








さぁいよいよ、先月の「邪馬台国=畿内説」の奈良・巻向遺跡に続いて九州説の検証だ!

 

伊丹空港を飛び立って。

 

淀川を越え、

 

神戸沖のポートアイランドが見えてきて、そのさらに沖に、神戸空港の建設現場が出現している。

 

瀬戸内海を眺めながら、うとうとし出したら福岡空港に到着。

 

福岡空港で、東京からやってきた河原さんと合流して対馬行きのAIR nippon機に乗り込む。博多から対馬は30分だ。

 

 

飛び立ってすぐ、壱岐の島が左下に(上)見えてきたと思ったら、もう「最終着陸態勢に入りま〜す。」ときた。アッという間だ。



鶏知(対馬)空港が眼下に見える(下右)。

 

さぁ、対馬だ対馬だ。ぞろぞろとタラップを降りてくる皆さん。






下、対馬空港にて(錦織さん撮影)。ポケモンANA(Air Nippon)だった。



 

 



	
	空港側のジャパレンでレンタカーを借りて、一路上県町を目指す。今日は対馬の北端に宿を取っているので、そこまでは
	なんとしても到着せねば野宿だなと思っていたら、レンタカー屋の兄ちゃんは「あ、すぐですよ。」とのたもうた。まっ
	すぐ行けば1時間ほどで最北端へ着いてしまうらしい。


対馬の最北端、韓国展望所から見た海上自衛隊の対馬基地。誰のカメラか、1日ズレている。


	
	対馬島の誕生はおよそ1万年前と推定されているが、その前、洪積世の中頃までは対馬はアジア大陸と陸続きであった。
	その後東シナ海がだんだん侵入してきて、洪積世の末期に現在の朝鮮半島と日本列島との間が切れて、それまで大きな湖
	であった日本海が東シナ海に通じた。この時、対馬は「島」として誕生したという。一方、もともと朝鮮半島と日本列島
	(対馬)の間には既に海峡があった、という説もある。氷河期に氷で結ばれていただけで、人や動物はこの氷の上を伝っ
	て日本へ来たという説である。私にはいずれとも判断は出来ないが、最近の学説では後者の説が有力という記事を読んだ
	ことがある。
	「対馬国」の名称がはじめて出現するのは魏志倭人伝の中であって、その記述からすれば対馬が倭国の一員であるのは疑
	いのないところである。「隋書」倭国伝には「都斯麻」とあり、古事記や旧事本記に「津嶋」と書かれている事から、
	「ツシマ」という倭語に「対馬」の字をあてたものだろう。「馬」の字は「卑弥呼」同様、ことさらに卑語を用いたもの
	らしい。「馬韓」に対する島という意味を見いだす人もいる。倭人伝の記述が元になり、以後朝鮮の資料では一貫して
	「対馬」と記され、国内でも日本書紀をはじめ正史にはすべて「対馬」が用いられている。

	始めて一海を渡ること千余里、對馬国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里
	可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北
	に市糴す。」 
	(・・・狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。)
	始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)
	という。この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多
	く、道路は獣道のようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、 海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北
	九州?)にのりだし交易を行っている。
	(また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。)

 

	
	狗邪韓国から海を渡って、まっすぐ対馬に到達するのは非常に難しいと思われる。狗邪韓国を今の釜山・金海付近だと想
	定すると、西から東へ流れている対馬海流では、たとえ海が凪いでいる夏(6−7月頃)だけ選んで航海しても相当東へ
	流されるはずである。魏使は朝鮮半島の西側から、絶えず海流に逆らいながら対馬を目指したのだろうと思われる。もっ
	とも対馬から釜山が見えるということは釜山からも対馬が見えるはずなので、対馬を目で見ながら必死で軌道修正しなが
	ら漕げばあるいはとも思えるが、相当な腕力と体力を持った漕ぎ手がいないと難しいだろう。
	直線距離で行けば釜山と対馬の最北端は約50kmであるが、従来の1里=90m〜100m説に従えば、これでは千余
	里にはならない。倭人伝を信用しきれば、魏使は対馬の南側に上陸したことになる。「對馬國」が今日の対馬であること
	にはほぼ異論がないが、魏使がどこに上陸したのかは不明であるし、歴史倶楽部の馬野さんのように、魏使は対馬には上
	陸していないという人もいる。
	官名の「卑狗」は「ヒク」又は「ヒコ」と読まれ、日本語では「彦」にあたると思われる。「卑奴母離」は日本書紀にあ
	る「夷守」だろうと思われる。後の「防人」同様、辺境を守る人々という意味がすでに紀元あたりから存在している。し
	かし官吏となると、その仕えていた人或いは機関は一体誰だったのだろうか。対馬の王か邪馬台国の卑弥呼か、或いは我
	々の知らない古代国家が対馬を支配していたのだろうか。
	「土地は山険しく深林多く」「道路は禽や鹿の径の如し」「千余戸有り」「良田は無く」「海の物を食べて自活し」「船
	に乗りて南北に市糴す」については、読んだそのままである。確かに山が険しく、道が無く、良田が少なそうである。魏
	使は少なくとも一回は対馬に上陸しないと、これらの情報は集まらないように思う。

		ちなみに、魏志倭人伝に記された数値情報を抜き出すと以下のようになる。

		(1).水行し韓国をへて狗邪韓国に至る。7千余里 。 
		(2).始めて一海を渡る千余里。対馬国に至る。方4百里可。千戸余。 
		(3).南、一海を渡る千余里。一大国に至る。方3百里可。戸数3千許。 
		(4).又一海を渡る千余里。末盧国に至る。4千余戸。 
		(5). 東南、陸行5百里。伊都国に到る。千余戸。 
		(6).東南、奴国に至る。百里。2万余戸。 
		(7).東行、不弥国に至る。百里。千余戸 
		(8).南、投馬国に至る。水行20日。5万余戸。 
		(9).南、邪馬台国に至る。水行10日、陸行1月。7万余戸。 







平成15年10月12日(日曜日)





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